忘れ得ぬ戦士たち

(21) 青木勝利(三鷹)

メガトンパンチ,破滅型の天才パンチャー

 生年月日  1942年11月28日
 出身地  東京都杉並区井荻
 プロデビュー  1960年6月6日
 ウェイト  バンタム級
 主要タイトル  東洋バンタム級
 タイプ  左ファイター
 終身戦績  66戦48勝(25KO)14敗4分
 主武器  左フック,ストレート


 この「忘れ得ぬ戦士たち」も実に21人目となりました。多くの名選手について語ってきましたが,私が特に心惹かれるのは冒頭ページに書いたように,「あふれる素質を生かせず蕾のまま散った者」,「引退後に新聞の社会面を汚すような世界に堕ちていった者」です。彼らのことを思うとき,勝負にも人生にも無意味なはずのタラレバを考えてしまいます。
 スポーツ界,芸能界をはじめとして,どの世界にも破滅型の天才は存在します。ボクシング界で真っ先に名前を挙げるならば,それは青木勝利でしょう。彼はまさに天才型パンチャーの代表格であり,その後の破滅への道も絵に描いたようなものでした。
 今回は要望が多かった青木勝利の足跡を辿ることにします。

若き日の快進撃
 青木は1960年6月に三鷹ジムからデビューし,17歳6ヶ月で大久保時男(笹崎)との4回戦に判定勝ちしています。ここから快進撃が始まります。
 着実に勝ち星を積み重ね,11戦目には斉藤清作(笹崎)と4回戦でグラブを交え,引き分けました。この斎藤は”河童の清作”という異名をとり,後に日本フライ級王者になった選手です。引退後にコメディアンの由利徹に弟子入りし,”たこ八郎”として絶大な人気を得ました。怪優として強烈な個性で一世を風靡し,今でも語り草になっています。人気絶頂の85年7月,海水浴中の事故で亡くなりました。
 青木の話に戻りますが,13戦目の新井八郎(京浜)との試合から6回戦に昇格しました。そして,18戦目に後の世界王者”カミソリパンチ”こと海老原博幸(金平)との6回戦が組まれ,人気を呼びました。しかし,これはさすがに海老原が強く,青木は2回KO負けで初黒星を喫しています。

 海老原の軍門に降った青木ですが,その後は再び連勝街道を驀進しました。61年6月,ちょうど20戦目に念願の10回戦でメインイベントを務めるまでになっています。しかも,この試合はNET(現在のテレビ朝日)で放送されるというおまけ付きでした。相手はレイ・ペレス(米国)。ハワイ州フライ級王者で,日本のリングに何度も上がっているお馴染みの選手です。好調の青木は序盤からワンサイドゲームを展開し,10回に連打からの左フックでTKO勝利を飾っています。
 ファイティング原田,海老原博幸に青木を加えて”フライ級三羽ガラス”として注目されたのはこの頃からです。ボクシング黄金期を迎えていたテレビ局は競うようにボクシング中継を放送しました。3人に寄せるファンの期待は急激に大きくなりました。

 62年6月には古豪レオ・エスピノサ(比国)とのカードが組まれました。白井義男に挑戦した経験もある百戦錬磨のエスピノサに,新進気鋭の青木が激突するというので,この試合も人気を呼びました。老獪なテクニックで手玉に取ろうとするエスピノサですが,青木は1・2回ともに左ストレートでリードを奪います。そして,3回に左ストレートでダウンを奪い,さらに左右フックの連打でエスピノサをKOに破りました。豊富な来日経験を持つエスピノサにとって,日本のリングで初めて喫したKO負けでした。
 62年9月,世界バンタム級10位につけた青木に世界7位のピエロ・ロロ(イタリア)とのカードが組まれました。このとき青木は7連続KO勝ちで臨んだ一戦。これは当時の日本記録でした。相手のロロはアマチュアで45戦して1敗,プロでこれが75戦目というテクニシャンです。すでにキャリア晩年でしたが,快進撃で世界に打って出ようとしていた青木の今後を占う重要な試合でした。日大講堂に7千人ものファンを動員したことからも青木の人気ぶりが窺えると思います。老練な世界ランカー・ロロに青木の苦戦が予想されました。しかし,終わってみれば3〜6ポイント差(当時は5点法)で青木の判定勝ち。堅牢なディフェンスに決定打こそ打ち込めなかったものの,明白な勝利でした。

米倉に勝ち,東洋バンタム級王者に
 ロロに勝った青木に東洋タイトル挑戦のチャンスが巡ってきました。王者・米倉健志(興伸)については説明無用でしょう。明大ボクシング部出身でメルボルン五輪の代表からプロ入りし,2度世界に挑戦した名選手です。引退後にヨネクラジムを興し,5人の世界チャンピオンを筆頭に数々の名選手を育成しました,ボクシング界への貢献度ははかり知れません。
 この試合は62年10月,日本テレビで夜8時30分から45分枠で放送されました。解説は平沢雪村氏,実況は志生野温夫アナウンサーです。平沢さんはダイナミックグローブでお馴染みの評論家で,テレビ解説者の草分け的存在。長く専門誌”TheBoxing”を主宰したことで有名です。志生野アナはプロレス,ゴルフ,野球の巨人戦でも知られており,日本テレビでは本多当一郎アナと同期。特に巨人のV9時代には数多くの名実況を残しています。人気番組だった「鳥人間コンテスト」(日本テレビ)の実況も務めるなど,幅広く活躍しました。
 米倉との試合は激しい応酬になりました。青木は3回に左フックでノーカウントながらもダウンを奪いますが,5回には米倉が右ストレートで青木をロープに詰めるという激戦。11回,青木の左ストレートで米倉がロープに腰を落としますが,すぐに右ストレートを返せば今度は青木がグロッギー。両者ともに正念場の12回,青木の攻勢でバランスを崩した米倉はカウント4のダウンを取られました。
 結果は2者が3ポイント差,1者がドロー。2−0による判定勝ちで青木が王座を奪いました。19歳11ヶ月の若き東洋チャンピオンが誕生した瞬間です。敗れた米倉は5度目の防衛に失敗し,これがラストファイトになりました。引退後に米倉が残した指導者としての輝かしい実績はもはや説明するまでもありません。
 この試合のリングサイドには世界バンタム級王者エデル・ジョフレ(ブラジル)のマネジャーであるカッツェネルソン氏が偵察のために陣取っていました。カッツェネルソン氏は青木の弱点を見抜き,警戒はしながらも自信を深めたようです。試合は翌63年1月3日に決まったと報じられました。

ジョフレの強打に完敗
 米倉からベルトを奪った青木はエキジビションマッチを挟み,ビック・カンポ(比国),タノムサク・ラエムファパ(タイ),レニー・カンポス(比国)を連続KOに屠りました。世界挑戦が実現したのは当初より3ヶ月遅れて63年4月です。
 3月23日にマリア夫人を伴って来日したジョフレはこれが6度目の防衛戦で,ここまで5連続KO防衛中。攻防兼備で爆発的なパンチ力を持つ強豪中の強豪です。
 羽田空港には極東プロモーションのプロモーターである小高伊和夫氏(沼田義明を育てた極東ジムの会長)だけでなく,三鷹ジムの川野久利会長と青木本人が長旅のジョフレ一行を出迎えるという破格の待遇でした。対戦相手が空港まで出迎えに行くというのは今では考えられないことですが,”黄金のバンタム”と称された不世出の名チャンピオンに敬意を表してのことだったと思います。
 この試合は前年に青木が勝ったロロ戦の前から小高氏がハワイの大物サム一ノ瀬氏を立て,ロサンゼルスの大物プロモーターであるジョージ・パーナサス氏の仲介を得て実現したものです。場所は蔵前国技館で,夜9時30分からTBSで放送されました。
 芸能界でも絶大な人気を誇った青木の世界挑戦とあって,石原裕次郎,守屋浩,永六輔,デン助こと大宮敏光らの大物芸能人がリングサイドを彩りました。リングインしたジョフレには父のアリステデス氏とカッツェネルソン・マネジャー,弱冠20歳の青木には川野会長と菊池峰治トレーナーが付き添いました。
 開始ゴングは遅めの夜9時38分。青木の強打を警戒して慎重な滑り出しを見せたジョフレに対し,2回,青木が攻勢に出ます。左ストレートからジョフレをロープに詰めた青木は左右フックで猛然と攻め立てます。観客は大いに沸いたものの,ジョフレは冷静にブロックしていました。青木のメガトンパンチに期待がかかった矢先の3回,ジョフレの強打が火を噴きました。青木は敢然と攻撃に出ますが,左ジャブ,フックでこれを制したジョフレはウェイトを左にシフトしておいて脇腹に左フックを一撃。苦悶の表情でダウンした青木は立ち上がりましたが,ジョフレは左ジャブから再び左フックを同じボディに打ち込みます。青木は悶絶して2度目のダウン。辛うじて立ち上がりましたが,ジラベロ主審はそこで試合を止め,ジョフレの左手を高々とあげました。
 ファンは青木の強打に期待しましたが,”黄金のバンタム”が持つ総合力を見せつけられる結果になりました。

アグイリーとの激闘
 ジョフレに完膚なきまでに叩きのめされた失意の青木は5ヶ月後の63年9月,保持していた東洋バンタム級王座の初防衛戦で再起を図りました。
 相手は強打としぶとさに定評がある21歳のカーリー・アグイリー(比国)です。しかし,試合後に川野会長が認めたように青木の練習不足は明らか。案の定,試合は惨敗に終わりました。3回までは青木が左ストレートで優位に立ちましたが,アグイリーの闘志は青木の脆弱な精神をはるかに上回っていました。アグイリーが青木の弱点と見たボディに的を絞ると,中盤から雲行きが怪しくなります。6回,アグイリーが猛然と左右フックを連打すれば,青木はついにダウン。8回には左アッパーをアゴに突き上げられ,再びダウン。そして,9回開始早々,左フックでまたもや仰向けにダウン。罵声を浴びながらカウントアウトされた青木は虎の子の東洋タイトルを失いました。

 アグイリーに王座を明け渡した青木は鹿児島でロバート・キャンベル(米国)を初回KOに屠り,4連勝(3連続初回KO)。再起を果たした余勢を駆り,翌64年3月,6ヶ月ぶりにアグイリーと対峙しました。青木は好きなビールを断って雪辱に賭けた一戦です。この試合はフジテレビのダイヤモンドグローブで放送されました。解説は林国治氏,実況は小篠(おざさ)菊雄アナウンサーです。
 試合は青木のワンサイドゲームになりました。ジョフレ戦の青木を知っているアグイリーは当然のようにボディを攻めますが,8回,青木の左ストレートがアゴに決まり,アグイリーは腰から落ちてダウン。10回,青木はローブローで減点されましたが,右フックでダウンを奪います。ロープに詰まって左アッパーで頭から落ちたアグイリーは仰向けに沈み,ここで石渡戸主審が試合をストップしました。
 王座奪回に成功した青木。ちょうどその頃,ポーン・キングピッチ(タイ)に世界フライ級王座を奪回されたファイティング原田(笹崎)がバンタム級に転向していました。ファンの期待が原田との黄金カードに集中したのは当然の流れだったと思います。
 64年9月,リングサイドに陣取るライバルの原田の目の前でアル・パターソン(比国)を迎えました。これは両者が目をカットして出血する凄惨な試合になりました。青木は悪い癖の練習不足が出て苦戦しますが,僅差で初防衛に成功しました。ここから一気に原田との一戦に突き進むのです。

世紀の一戦 〜 原田との対決
 原田は世界2位,青木は東洋王者ということで,この試合は文字通りの頂上決戦でした。これも極東プロモーションの小高伊和夫代表が笹崎・川野両会長と交渉して実現したビッグカードでした。TBSで毎週木曜日に放送されていた「東洋チャンピオンスカウト」の第300回記念試合としておこなわれたものです。
 実は青木が初防衛に成功したのを見て,原田は青木の東洋王座に挑戦状を出しています。前世界王者が東洋王者に挑戦状を突きつけるというのも異例ですが,そこにバンタム級で世界を狙う原田の並々ならぬ決意が表れていたと思います。
 64年10月,試合はノンタイトル10回戦として行われました。桜井孝雄の金メダルで沸いた東京オリンピックが閉幕した直後のことでした。場所は蔵前国技館。原田にとってはポーンから世界タイトルを奪った縁起の良い会場。青木にとってはジョフレのボディ打ちに沈んだ会場でした。
 努力型・原田のラッシュか,天才型・青木のメガトンパンチか・・・・・試合が近づくにつれて報道が過熱し,盛り上がりました。原田は恒例の伊豆下田でキャンプを張り,世界戦並みの調整。青木も珍しく練習に打ち込み,こちらも世界戦レベルの仕上がり具合でした。
 相次いで公開練習に臨んだ両雄ですが,サウスポーの青木を想定し,原田のスパーリングパートナーを買って出たのが海老原です。一方,練習嫌いで知られる青木も強打でパートナーをぐらつかせ,順調な調整をアピールしました。
 放送は夜9時30分からTBS。解説は郡司信夫氏,白井義男氏の名コンビです。開始ゴングと同時に飛び出した原田が猛ラッシュを敢行します。青木をロープに押し込んだ原田ですが,左フックを返されてぐらつきます。しかし,原田の猛烈な突進は止まらず,右フックで初回に2度,2回に1度倒します。そして,3回,原田渾身の右フックが弧を描いてアゴに炸裂。青木は後頭部をしたたか打ちつけてキャンバスに沈み,万事休す。
 呆気ない幕切れでしたが,連打型でパンチ力はあまり評価されていなかった原田の破壊力には目を見張るものがありました。宿命のライバル青木を一蹴した原田が翌65年5月,ジョフレに勝って2階級制覇を達成したことはご承知のとおりです。
 この試合の勝者には世界フライ級2位・海老原博幸,世界バンタム5位・斎藤勝男(暁),日本フェザー級王者・小林弘(中村)の3人から同時に挑戦状が出されました。文字通り錚々たる顔ぶれです。今はほとんど聞かれない挑戦状ですが,この頃は頻繁に行われていました。それだけ日本ボクシング界にエネルギーがあったし,ジムにも選手にも気概があったということでしょう。
 余談ですが,笹崎会長の季子夫人は,減量が厳しい原田のためにビーフティを作るのが習慣でした。これは煮込んだ牛肉から出るエキスを含む汁です。原田はビーフシチューと呼んでいましたが,涙ぐましい話です。これはカルロス・オルチスが来日したときにオルチスのマネジャーから季子夫人が教わったものだと言われています。

天才強打者の落日 〜 哀しき踏み台に

 宿敵・原田に完敗を喫した青木は65年7月,小柄な右ファイター金R(韓国)に判定勝ちで2度目の防衛に成功しました。箱根・仙石原でキャンプを張るなど,珍しく意欲を見せた試合でした。翌8月には”荒法師”と異名をとった高見達矢(東京ボーリング)を7回KOで降して気を吐きます。
 しかし,再び酒好きと練習嫌いが出て,その強打は鳴りを潜め,拙戦が続きました。10月には東京・杉並のバーで酒に酔って暴れ,知人の暴力団員とともに暴力行為と器物損壊の現行犯で荻窪署に逮捕されるという事件を起こしてしまいます。それまでも酒の上での事件で2度逮捕されていますが,緊張の糸が切れてしまったかのように急速に下降線を辿りました。
 65年11月には和歌山で新鋭・水田豊春(串田)と対戦しましたが,6回に右フックでロープの間からエプロンにまで叩き出されるダウンを喫し,完敗を喫しました。12月にはマニラでルディ・ビラゴンザ(比国)と対戦し,右目上をカットして3回TKO負けとなっています。
 翌66年はさらに青木の不振が続きます。1月,小林弘(中村)との試合が組まれました。東洋バンタム級王者の青木と日本フェザー級王者の小林という好カードでしたが,精彩を欠いた青木は小林のテクニックに翻弄されました。
 4月には徐守康(韓国)にも完敗を喫しています。病床の妻を放り出して酒浸りでジムから姿を消し,飲み歩いた末に現れたのは試合の5日前。そこから付け焼刃的に7ポンドの減量をして試合に臨みましたが,それで通じるほど甘くはありません。
 同じ4月,4連敗で迎えた東洋王座の3度目の防衛戦の相手はプロ8戦目の新鋭・李元錫(韓国)。アマチュアで100戦して95KO・RSCという強打とテクニックを兼備した強豪です。序盤こそ李が慎重だったため,練習不足の青木はボロを出さずに済みましたが,3回以降は李のペース。11回,右フックを皮切りに李のラッシュに晒された青木は3度倒されて屈辱のKO負け。ついに王座から引きずり降ろされました。2歳の愛娘に勝利を誓って上がったリングですが,不摂生は明白でした。

 5連敗となった青木にはコミッションから休養命令が下されました。66年6月には”荒法師”という異名をとった高見達矢(東京ボーリング)を返り討ちにしましたが,前年に敗れている水田豊春(串田)には返り討ちにされ,さらには金メダリストからプロ入りした桜井孝雄(三迫)に連敗を喫しました。
 翌67年4月,阪東武夫(AO)をボディ打ちで3度ダウンさせて4回KOに屠りました。これは青木にとって生涯最後のKO勝利となりました。しかし,青木の意地もここまで。6月には一度破っている金R(韓国)に判定負け。
 7月には新進気鋭の柴田国明(ヨネクラ)と対戦しました。下降線の青木は14連勝中(10KO)のホープ柴田の敵ではありませんでした。開始早々から攻勢に出た柴田は右ストレートから左右フックで早くも攻勢。ロープを背負い,上体を海老のように折り曲げて耐える青木に昔日の面影はなく,右フックで脆くもダウン。右アッパーを打ち込まれ,柴田の足元にひれ伏すように2度目のダウン。カウント9で立ち上がって意地を見せますが,意識朦朧。襲いかかった柴田の追撃で呆気なくストップされました。わずか112秒で惨めなKO負け。のちに2階級制覇の名チャンピオンになる柴田と堕ちた天才パンチャー青木との新旧交代が非情なほど印象づけられた一戦です。
 8月,青木がついにラストファイトを迎えます。相手は前年に敗れている徐守康(韓国)ですが,徐の的確なパンチに判定負けで返り討ちにされました。場所は青森の八戸体育館。かつて人気絶頂でボクシング黄金期を支え,”フライ級三羽烏”として一世を風靡した青木にしてはあまりにも寂し過ぎる最期となりました。

 68年1月,青木の引退記念試合がおこなわれました。
 メインイベントの10回戦では,二代目・青木勝利(三鷹)が元東洋王者・石山六郎(極東)を判定で破っています。この二代目・青木は「初代の夢よもう一度」とばかりに川野会長が本名の佐藤稔から改名させたジムの後輩であり,大宮健というリングネームで戦ったこともあります。二代目は同じサウスポーですが,強打者だった初代とは違って非力でした。68年3月には千葉信夫(ヨネクラ)と空位の日本フェザー級王座を争い,7回KOで退きました。結局大成せずに消えています。

栄光と落日 〜 青木勝利とは何だったのか
 青木は同じく暴力事件を起こした沢田二郎,権藤正雄と並ぶ稀代のトラブルメーカーです。暴行,窃盗,器物損壊,詐欺(無銭飲食)などによって度重なる逮捕と服役を繰り返しました。しかし,どこか憎めない部分があったことも確かです。
 全盛期には「青木勝利後援会」が結成され,熱狂的な青木ファンだった安井謙氏が後援会長を買って出ました。安井氏は参議院議長や自治大臣を歴任した自民党の大物代議士です。初代の東京都知事だった安井誠一郎氏の実弟としても知られています。今では到底考えられないことであり,青木の人気がいかに絶大だったかがわかると思います。
 その魅力はメガトンパンチと称され,軽量級離れした強打と思い切りのよさに尽きます。普通は体勢が崩れたところから強いパンチは打てないものですが,青木は違いました。考えられないような崩れた体勢からでも,ウェイトが乗って強烈な左フック,ストレートを発することができました。青木の最大の強味はここにあります。
 ところが精神面の弱さは致命的。試合の恐怖から行方をくらましたり,酒浸りで満足な練習もせずにリングに上がることがしばしばでした。自ら開いたとんかつ屋「かっちゃん」も長続きせず,私生活は荒むばかり。引退後はキックボクシングへの転向も噂されましたが,結局は実現しませんでした。
 多くのマスコミが引退後の青木を追いましたが,その消息は長く不明でした。ところが86年8月にTBSで放送された「中村敦夫の地球発22時」の特集「ロッキーになれなかった男たち」の中で久々に姿を現したのです。呂律が回らず,足元もおぼつかない姿は当時43歳とは思えぬ落ちぶれた様子であり,輝かしい日々を知っている私は衝撃を受けました。それを最後に青木の消息は再び不明となっています。

 私の手元には若き日の青木が写った数々の写真があります。それらを眺めていると,眩いばかりの輝きが感じられます。しかし,キャリア後半は不摂生が祟って若い選手の踏み台にされ,終焉は惨めなものでした。
 努力型の見本だった原田を優等生とすれば,青木は不良っぽくアウトロー的イメージ。同じく天才肌だった海老原とともに「フライ級三羽ガラス」として一世を風靡しました。しかし,海老原の拳がその強打に耐え切れず骨折を繰り返したように,青木の脆すぎるメンタルは自身を支え切れず,リング外で数々のトラブルを起こしました。青木が原田の10分の1の努力をしていれば,そのキャリアは全く違ったものになっていたかも知れません。青木のことを考えると,時計の針を逆に回したいという衝動に駆られます。すべては空しいタラレバの話ですが,ボクシングファンにいつまでも醒めぬ夢を見させてくれるのが青木勝利の魅力でしょう。


『忘れ得ぬ戦士たち』のトップに戻る      ← 前に戻る     次に進む →

ホームページのトップに戻る