忘れ得ぬ戦士たち

(20) ドワイト・ホーキンス(米国)

執拗なボディブロー,日本のリングを震撼

 生年月日  1938年8月4日
 出身地  米国ミズーリ州カンザスシティ
 プロデビュー  1956年5月14日
 ウェイト  フェザー級
 主要タイトル  米国カリフォルニア州バンタム級,フェザー級
 タイプ  右ファイター
 終身戦績  77戦51勝(35KO)20敗6分
 主武器  左右フック,左アッパーのボディブロー


 非常に淋しく情けないことですが,最近は海外からわざわざ強豪を呼んで危険を冒すような試合を行うことはほとんどなくなっています。ボクシングが黄金期にあった頃,それは世界に打って出るためには当然踏むべき道でしたが,今は安易な世界挑戦が目立ちます。
 かつては日本人ボクサーの前に立ち塞がる壁の役割を果たした外国人ボクサーが多く存在しました。日本ボクシング界もその壁を破ろうと,切磋琢磨したものです。
 今回御紹介するドワイト・ホーキンスは1960年代終盤に3度来日し,執拗なボディブローで恐れられたファイターです。世界ランキングに長く留まりながら一度も世界挑戦のチャンスに恵まれることがありませんでしたが,日本人に煮え湯を飲ませた強豪の代表格と言えます。

長い下積み
 ホーキンスは7歳のときに交通事故に遭い,危うく足を切断という重傷を負っています。因果関係はわかりませんが,ベタ足で動きが鈍重なのはそこに理由があるのかも知れません。

 ロサンゼルスで出会ったジョニー・フローレス・マネジャーの指導の下でボクシングの道に入りました。56年5月,カリフォルニアでルディ・シネロス(米国)を初回KOで破ってデビューを果たしています。下積み時代が非常に長く,カリフォルニアやメキシコを主戦場として,転戦しました。
 57年11月にはジョー・ベセラ(メキシコ)に4回KO勝ちという番狂わせを演じています。これはホーキンスが恐れられ,避けられるボクサーとして認知される最初の試合となりました。
 翌58年3月に行われたベセラとのリターンマッチでは9回TKO負けに退いていますが,ベセラに勝ったことはホーキンスのキャリア初期を飾る大きな勝利と言えます。このベセラは強打者として知られ,後に世界バンタム級王者として来日し,米倉健志(興伸)の挑戦を受けました。米倉の弟子であるガッツ石松がロドルフォ・ゴンザレス(メキシコ)からWBC世界ライト級王座を奪っていますが,そのゴンザレスはベセラの従妹です。これも不思議な縁です。
 58年6月には『ロープ際の魔術師』と呼ばれて日本でも絶大な人気を博したジョー・メデル(メキシコ)とグラブを交え,7回KO負けを喫しました。
 メデル戦直後の58年7月,ハーマン・マルケス(米国)とは引き分けていますが,翌59年4月にはリターンマッチでマルケスを判定で破り,カリフォルニア州バンタム級タイトルを獲得しました。マルケスはエデル・ジョフレ(ブラジル)に挑戦したこともある世界的強豪です。ホーキンスとは良きライバル関係にあったと言えます。

 その後,5連敗というトンネルに入って引退を表明したホーキンスは2年間のブランクを作っていますが,62年10月にマニー・リンソン(米国)を4回KOで降して復帰を果たしました。
 この頃,ホーキンスは世界フェザー級王者デビー・ムーア(米国)とトレーニングをともにし,スパーリングパートナーを務めていました。そのムーアがシュガー・ラモス(キューバ)との6度目の防衛戦でリング禍に見舞われたことは御存知の通りです。
 63年4月にはビセンテ・サルジバル(メキシコ)と対戦していますが,さすがにこれは5回KOで敗れています。サルジバルはその翌年に世界フェザー級王座についています。ホーキンスは実力がありながら,世界的強豪には歯が立たない状態が続いていたのです。しかし,このような挫折を乗り越えて経験を積んだことが老獪な試合運びにつながっていると言えます。
 64年6月には世界ランカーだったマニー・エリアス(米国)に判定で勝ちました。エリアスはバンタム級の世界ランカーであり,来日して中根義雄(不二)や斎藤勝男(暁)とグラブを交えました。

初来日 〜 柴田国明を病院送りに
 ホーキンスは生涯で日本人選手と5試合を戦い,5戦4勝(4KO)1敗という記録を残しています。最初は66年11月,カリフォルニアで宮下攻(協栄)とグラブを交え,左フックのボディブローで3回KOに屠っています。
 この宮下は後の世界フェザー級王者・西城正三(協栄)の兄弟子にあたります。西城は無名のまま米国に渡って世界挑戦のチャンスを掴みましたが,宮下は西城よりも早く米国に渡り,キャリア後半のほとんどを海外で戦っています。引退後は協栄ジムで後進を指導し,後に沖ジムに移って竹原慎二(沖)を育成したことで有名です。

 ホーキンスの話に戻ります。68年に入り,立て続けに3度来日しています。初来日は68年3月,相手は当時売り出し中だった柴田国明(ヨネクラ)でした。関光徳(新和)の引退を受け,世界を狙える逸材として期待を集めたのが柴田です。ここまで21戦全勝(15KO)という抜群の成績を収めていました。
 当時のホーキンスは世界フェザー級6位にランクされていました。今とは比べ物にならないほど,世界タイトルの価値が高かった時代です。世界ランカーにも本物の実力者が犇めいており,ホーキンスはその一人でした。日本フェザー級4位の新鋭・柴田にとっては危険な相手でしたが,これを破って一気に世界へのチャンスを掴もうという一戦でした。ホーキンスはここまで46勝中32KOという強打者ですが,米倉会長はスピードとパンチの切れで上回る柴田なら十分に勝機があると踏んだのでしょう。
 この試合はフジテレビが放送しましたが,柴田にとって無残な結果になりました。3回,柴田はロープに詰めて左右フックを連打し,右フックでぐらつかせましたが,以降はホーキンスが最も得意とする接近戦に引きずり込まれました。執拗な左右フックのボディブローで動きを止められ,6回には完全に動きが止まりました。
 徐々に敗色を濃くした柴田は7回,左フックのボディ打ちから右フックでぐらついて後退。最後はアゴへの左フックでトドメを刺され,ロープ際で崩れるようにダウン。深刻なダメージを被った柴田は大の字に沈み,22戦目で初めての挫折を味わったのです。百戦錬磨のホーキンスの前に,柴田が若さを露呈した一戦でした。
 2,800人という満員の観衆を動員した後楽園ホールはファンの悲鳴と落胆に包まれました。担架で搬出された柴田は救急車で東京・新橋の慈恵医大病院に運ばれ,そのまま入院を余儀なくされました。強烈なボディブローを受けた柴田には血尿が認められ,精密検査を経て退院したのは2日後のことです。
 負けっぷりの良さで定評がある柴田は生涯6敗のうち5KO負けを喫していますが,4試合は夢の国に飛んだ失神KOでした。連打に耐えて耐えてダメージを蓄積し,力尽きる形でKOされたのは,後にも先にもホーキンス戦だけです。そういう意味で柴田の5KO負けの中では特異な試合内容でした。

2度目の来日 〜 石山六郎をTKO
 後に2階級制覇の名王者に成長する柴田に世界の厳しさを教えたホーキンスは2ヶ月も経たない68年5月,再び来日して元東洋ジュニア・フェザー級王者の石山六郎(極東)と対戦しました。
 石山は秋田県出身で本名・石山忠。ボクシングブームに乗って次代を担うボクサーを育成しようと,TBSと極東ジムがタイアップして開いた『ボクシング教室』の出身です。天才肌のところがあるファイターでしたが,打たれ脆さに加えて,カッとなりやすい性格が災いし,キャリア晩年は低迷しました。そういう面ではフライ級で世界に挑戦した高山勝義と共通するものがありました。石山はボクシング教室の縁でTBSの第一演出部に勤務しており,ロクさんの愛称で親しまれています。
 ちなみにTBSの『ボクシング教室』には全国から8,000名にも及ぶ若者が応募しました。当時のボクシングブームがいかに凄かったかがわかります。このうち約30名が予選を通過しましたが,最後まで残ってチャンピオンまで上り詰めたのは沼田義明,森洋と石山六郎の3名だけです。ブームの凄さ以上に厳しい世界だということでしょう。
 後年『天才たけしの元気が出るテレビ』(日本テレビ)の企画として人気があった『ボクシング予備校』が,飯田覚士や松島二郎を輩出しています。しかし,TBSの『ボクシング教室』は局側の力の入れ方やスケールが全く異次元であり,元祖ボクシング予備校と言えるでしょう。

 さて,そのTBSが放送したホーキンスと石山の試合に戻しましょう。世界ランク入りと再浮上を狙う石山は積極的に攻撃を仕掛けますが,2回に入るとホーキンスが攻勢に出ました。実力の差は明らかでした。強烈な左右アッパーのボディブローからアゴに右アッパーを突き上げられた石山は腰が落ちてダウン寸前のピンチ。辛うじて踏み止まりますが,結局バッティングでカットした左目上の傷が続行不能とされ,石山のTKO負けとなりました。今なら負傷引き分けになるところですが,当時は負傷で続行不能となった場合はTKOというルールになっていました。たとえ試合が続行されていても,石山はどこかでホーキンスの強打に捉まっていたでしょう。

3度目の来日 〜 ファイティング原田との死闘
 わずか2ヶ月足らずの間に柴田,石山をKO,TKOに破った試合を目の当たりにし,ファンの間には『ホーキンス恐るべし』という評価が高まっていました。その危険な相手に待ったをかけるべく名乗りを上げたのがファイティング原田です。
 試合は68年6月,後楽園ホールで行われました。原田は直前の2月,ライオネル・ローズ(豪州)に世界バンタム級王座を明け渡したばかり。3階級制覇を狙ってフェザー級への転向を表明した原田にとっては,再起第1戦でした。ホーキンスは世界フェザー級4位にランクされていたので,原田が勝てば一気にフェザー級王座に挑戦する道が開ける大事な一戦だったのです。
 下馬評は公開スパーリングで抜群の動きを見せていた原田有利。ホーキンスに追い足がないだけに,持ち味のスピーディな出入りを生かせば原田の判定勝ちというのが大方の予想でした。しかし,私の記憶ではその予想は原田への期待が半分以上で,実際には多くの部分を不安が占めていました。不安材料の大半はホーキンスの強烈なボディブローに原田が耐えられるかというものだったでしょう。
 原田はホーキンスのお株を奪うようなボディブローを交えた連打で先制のラッシュを敢行しました。右ストレートのボディブローが有効でした。前半のホーキンスは幾度となくロープを背負い,原田優勢のまま後半に入りました。しかし,12年間で70戦目というキャリアを誇るホーキンスも黙っていません。5回以降はホーキンスがじわじわと反撃の狼煙を上げました。
 7回,攻めているのは原田ですが,的確にパンチを返すホーキンスにポイントが流れました。老獪なクリンチワークで原田の攻撃から逃れ,ベタ足から長い腕を回して放つ強烈な左右フック,アッパーで原田を苦しめます。8回,右フックをアゴにもらった原田はグラブをついて不覚のダウン。ホーキンスは9回にヘディングで減点されましたが,ダメージは原田の方にありました。
 結局原田が2−0で判定勝ちしましたが,バンタム級以上に強豪が犇めくフェザー級で世界を狙うことの厳しさを思い知らされる一戦となりました。その後原田はジョニー・ファメション(豪州)に2度挑戦しますが,私は原田がホーキンス戦に敗れていれば,この時点で引退していたと思います。それだけ重要な分岐点になった試合だと言えます。裏を返せば,これから3階級制覇に打って出ようとする大事な試合で危険を冒してホーキンスと戦う必要がなかったわけです。しかし,わざわざそういう相手を選んだところにこそ原田の原田たる所以があります。

 死闘の末に原田がホーキンスを破った翌日,想像もしていなかったビッグニュースがロサンゼルスから飛び込んできました。無名の中堅選手だった西城正三(協栄)がノンタイトル戦でWBA世界フェザー級王者ラウル・ロハス(米国)に快勝したのです。一気に注目された西城は3ヶ月後にタイトルを賭けた再戦でもダウンを奪って快勝し,見事にフェザー級としては日本人初の世界チャンピオンに輝きました。高山一夫,関光徳が成しえなかったフェザー級の世界タイトルを日本にもたらしたシンデレラボーイの誕生です。
 当然のことのように西城vs.原田という黄金カードの実現に期待が沸騰しましたが,これは系列テレビ局の違い(西城=日本テレビ,原田=フジテレビ)により,夢のカードで終わりました。

淋しいラストファイト 〜 ホープの踏み台に
 ホーキンスは同じ68年11月にフランキー・クロフォード(米国)を8回TKOで破り,空位だったカリフォルニア州フェザー級王座を獲得しています。クロフォードは後に2度来日して西城に挑戦しており,日本でもお馴染みの選手です。右ファイタータイプのアイリッシュであり,西城との第1戦では初回に左フックでダウンを奪っています。
 69年7月,柴田の後輩・千葉信夫(ヨネクラ)がカリフォルニア州イングルウッドに渡ってホーキンスに挑みました。柴田の敵討ちと意気込んだ千葉ですが,呆気なく捉まってしまい,左フックで初回にKOされています。世界フェザー級王座を返上して引退したサルジバルがホセ・レグラ(スペイン)を破って復帰した一戦のアンダーカードでした。
 同じ興行のリングに牛若丸原田(笹崎)が上がっていますが,師匠の笹崎会長は豪州でファメションに挑戦した兄・原田に同行して不在。会長の名代としてお嬢さんの笹崎万千子さんが牛若丸に同行して話題になりました。

 その1ヶ月後の69年8月,77戦目のホーキンスはイングルウッドの同じフォーラムでラストファイトを迎えています。相手は2年後に来日し,西城から王座を奪うことになるアントニオ・ゴメス(ベネズエラ)。この試合は当時のWBC世界フェザー級王者ファメションへの挑戦者決定戦と銘打って行われました。31歳になっていたホーキンスにとっては念願の世界挑戦に向けて最後のチャンスでした。
 ホーキンスはテクニックと強打を兼備した上り調子のホープの踏み台になり,10回KO負けしたのを機に引退しています。9回まではわずかに優勢だったホーキンスですが,10回にゴメスの左フックでダウン。ホーキンスはゴメスの攻勢に耐えますが,長年連れ添ったフローレス・マネジャーがタオルを投入し,すべてが終わりました。
 ちなみにこの試合は怪物ルーベン・オリバレス(メキシコ)が強打にモノを言わせ,5回KOでライオネル・ローズ(豪州)から世界バンタム級王座を奪った一戦のアンダーカードでした。新しいスターの誕生を横目にホーキンスは淋しくリングを去ったのです。
 実は最後のリングとなったゴメス戦には裏話が隠されています。同じ興行に立つことになったローズとホーキンスが試合前にスパーリングでグラブを交えました。ところがホーキンスの強烈なボディブローを打ち込まれたローズが肋骨を痛めてしまったのです。そのおかげでローズは数日間,スパーリングができなくなりました。ボディ打ちで恐れられたホーキンスらしいエピソードです。

正真正銘・無冠の帝王 〜 ホーキンス
 ホーキンスは褐色の肌をしたベタ足の右ファイタータイプです。動きこそ鈍重でしたが,細い足と長い腕が特徴で,クリンチワークも巧みでした。相手にとって脅威だったのは,何と言っても執拗で強烈なボディブローです。脇腹を狙う左右フック,アッパーが強く,柴田,石山,原田ともにこのパンチに苦しみました。
 攻め込んでくる相手をロープ際に下がって誘い,アッパーを突き上げるなどの老獪な試合運びを見せました。ボディブローの影に隠れていますが,左ジャブ,ストレートも正確です。
 腎臓を狙うキドニーブローは反則ですが,ときにはそれを反則ギリギリの角度で打ったりしました。尻上がりに調子を上げるのが特徴で,試合後半での強さは際立っています。これは相手にとって精神的なプレッシャーになり,ホーキンス自身にとっては見えない武器になっていました。
 わずか3ヶ月ほどの間に3度も後楽園のリングに立っていますが,それはキャリア最晩年のことです。それでも恐さ,不気味さは格別でした。柴田戦の衝撃はもちろんですが,石山戦,原田戦で実感したハラハラドキドキ,恐怖感は忘れられません。
 実力者でありながら一度も世界挑戦のチャンスに恵まれなかったのは不運と言わざるを得ません。その理由として,えげつないボディブローを嫌われ,チャンピオンから避けられた側面があると思います。いずれにせよ,ホーキンスは正真正銘の無冠の帝王であると言えます。
 引退後は地元ロサンゼルスで不良少年の更生に尽力したと伝えられています。

 その強豪ホーキンスに危険を承知で次々と真っ向勝負を挑んだ日本人の勇気に触れないわけには行きません。冒頭にも書きましたが,こういう強豪に次々と挑戦して行った当時の日本人の心意気たるや凄まじいものがあります。
 最近はこういう外国人に挑もうとする
日本人がいません。それどころか引退同然の相手を物色して世界戦を仕組む,ちょっと強そうな相手が出てくると複数階級制覇を口実にベルトを返上して逃亡・・・・・名指しは避けますが,情けないし,淋しいことです。



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