忘れ得ぬ戦士たち

(19) ムサシ中野(笹崎)

リングの剣豪,不滅の12連続KO

 生年月日  1945年2月26日
 出身地  韓国ソウル
 プロデビュー  1963年8月25日
 ウェイト  ウェルター級
 主要タイトル  東洋ウェルター級
 タイプ  左ファイター
 終身戦績  43戦35勝(24KO)5敗3分
 主武器  右フック,左ストレート


 連続KOといえばムサシ中野であり,ムサシ中野と言えば連続KOです。中野は文字通り連続KOの代名詞と言っていいでしょう。
 彼が樹立した12連続KO勝ちは不滅の金字塔として強烈な記憶を残しています。その記録は後に浜田剛史(帝拳)によって塗り替えられましたが,今もなお褪せることがない輝きを保っていると言って過言ではありません。
 中野を抜きに日本の歴代ハードパンチャーの系譜を語ることはできないでしょう。しかし,華々しい活躍の一方で,名選手にありがちな悲運の香りを漂わせていたことも間違いありません。今回は一打必倒の強打で一世を風靡したムサシ中野の足跡に迫ります。いつものようにあちこち寄り道や脱線がありますが,大目に見て読んでください。


朝鮮からの引き揚げ 〜 苦しかった幼少時代
 中野の祖父・宗助は戦前から戦後にかけて朝鮮総督府や警察学校の師範を務め,全日本剣道連盟から剣道十段を授与された達人でした。今でも福岡県浮羽郡田主丸町に宗助の功績を称えた記念碑があります。
 父も朝鮮総督府の警察官であり,中野も終戦の直前にソウルで生まれました。1945年の終戦とともに九州に引き揚げましたが,3歳のときに母を亡くしています。
 親戚の家に預けられて育った中野は三重県の四日市工業高校機械科に入学しました。四日市工業高校のOBと言えば,後に早大からエスビー食品に進んで箱根駅伝やマラソンで大活躍した瀬古利彦がいます。中野は瀬古の先輩になるわけです。
 中野は入学とともに柔道や空手に親しみました。その頃,地元でボクシングを教えていた人がいて,中野はそこでボクシングと出会いました。
 ボクシングの虜になった中野は高校3年で中退し,単身上京して笹崎ジムに入門しました。ちょうどその頃の笹崎ジムはファイティング原田や重量級のスターだった海津文雄が現役でした。最も活気があった時代と言えます。中野の素質に惚れ込んだ笹崎会長が内弟子としてジム内に住み込ませ,プロボクサー生活が始まりました。


ボクシングとの出会い
 デビューは1963年8月,米原時夫(鈴木)との4回戦で判定勝ちでした。中野ほどの名選手が意外なことに,4回戦を17試合も経験しています。今では考えられないことですが,64年には13試合もこなしています。
 5・10戦目に対戦していずれも引き分けた上甲駿一(金平)は後に協栄ジムで海老原博幸のトレーナーとして活躍し,ミカドジムや新田ジムでも後進の指導に当たった人です。パンチ力とタフネスを兼ね備えたファイターでした。
 1964年11月,しぶとい強打者として定評があった高木貞雄(串田)に判定勝ちしています。この高木という選手は現役世界王者だった藤猛(リキ)にはノンタイトル戦で生涯唯一のKO負けを喫しましたが,後にライオン古山(笹崎)の日本タイトルに挑戦してダウンを奪われながらもフルラウンドを戦っています。ジュニア・ウェルター級の中堅として活躍した選手です。
 中野は64年12月の東日本ライト級新人王を中山哲雄(興伸)と争いましたが,これは右フックでダウンを奪われた末の判定負けに退き,新人王のタイトルを逃しました。


強打開眼 〜 KO街道を爆進
 稀代のハードパンチャーとして歴史に名を刻んだ中野ですが,売り出しの頃はそれほど傑出した成績を収めたわけではありません。65年12月に釘沢政勝(東邦)を7回TKOに破った試合から伝説の12連続KO勝利が始まるのですが,釘沢戦の直前までの戦績は23戦17勝(6KO)3敗3分。強打開眼となったのは釘沢戦からでした。
 66年1月には福地竜吉(帝拳)を2回KOで破りました。この福地は有名なボクサー福地四兄弟(健治・竜吉・昭吾・英雄)の次弟。長兄は現在審判員として活躍している福地勇治さんの父としても知られる元東洋ウェルター級王者・福地健治です。つまり竜吉は福地レフェリーの叔父になります。
 同じ66年5月,同門の先輩ファイティング原田がエデル・ジョフレ(ブラジル)を返り討ちにした日本武道館の前座でジェリー・コブラ・ペート(米国)を初回わずか26秒のKOで一蹴しました。コブラ・ペートは米国軍人として長く日本のリングで活躍し,当時のトップクラスと数多くグラブを交えた選手です。昭和30年代後半から40年代前半の日本の重量級にとっては貴重なタレントでした。

 この辺から中野が強打者として目覚めた感じがします。66年7月には一階級上の上位ランカー藤田洋光(塚原=後のハリケーン藤田)を2回に得意の右フックで2度ダウンさせてKOに屠りました。中野にとっては初めての10回戦でさらに初のメインイベントでもありました。これで5連続KO勝ち。当時の日本記録が7連続KOでしたから,笹崎会長だけでなくファンの期待も膨れ始めたものです。
 1ヶ月後の8月には後の日本王者で長身のボクサータイプだった吉村則保(中日)をも2回KOで破り,絶好調。
 そして66年10月,日本タイ記録の7連続KOが懸かる大事な試合に強敵が立ち塞がりました。相手はフェル・ペトランザ(比国)です。4ヶ月前に大阪のリングに上がり,藤猛(リキ)を猛烈なボディブローでKOした現役のフィリピン王者でした。このときペトランザは世界7位にランクされていた老獪な強豪です。中野が初めて迎えた最大の試練でしょう。
 予想は中野の不利という声が支配的。しかし,試合は7回まで中野がわずかにリードしました。ペトランザも武器のボディブローで反撃しますが,8回,中野の右フックでぐらつきます。そして10回終盤,再び中野の強烈な右フックが決まり,ペトランザは横転。わずか38秒を残したところでカウントアウトとなり,中野は7連続KO勝ちでピストン堀口,青木勝利,関光徳,岡野耕司の4人が持つ記録に並びました。ハンマーパンチの藤をKOしたペトランザを沈めたことにより,中野の評価は急上昇します。

 実はこのペトランザ戦のアンダーカードではもう一つの偉大な記録が生まれています。東日本新人王戦のライト級予選で有沢茂則(草加協栄)が原興一(極東)を初回13秒でKOし,当時の日本最短KO記録を1秒短縮する新記録を樹立したのです。これは81年11月に興俊雄(センタースポーツ)が初回12秒KOを記録するまで15年間も破られなかった大記録でした。さらに有沢はこの試合で5連続1ラウンドKO勝ちを達成しており,これも当時の日本記録樹立というおまけ付きでした。
 この有沢は現在は草加有沢ジムの会長として選手の育成に尽力しています。当時はまだ19歳で日大商学部に在学中の学生でした。言わずと知れた双子の人気ボクサーとして活躍した有沢兄弟(カズ,コウジ)の父です。カズ,コウジの強打は父譲りということになります。


ムサシ中野に改名
 ペトランザ戦の鮮烈なKO劇で,中野は日本重量級における人気を不動のものにしました。そのリングキャリアにおける出世試合と言ってもいいでしょう。
 気を良くした笹崎会長は66年11月のエディ・ケーンテ(比国)との試合から”ムサシ”というリングネームを与えました。本名の中野勝也から改名し,ムサシ中野が誕生したのはケーンテ戦からです。
 ちなみに笹崎会長という人はリングネームのネーミング名人として有名です。ファイティング原田に始まり,ムサシ中野,牛若丸原田,ライオン古山,タートル岡部,スナッピー浅野,サルトビ小山,ブル加藤などなど。どれを取ってもその選手の特徴はそれ以外にないという絶妙なネーミングでした。

 8連続KOの日本記録を達成したケーンテ戦が行われたのは愛知県豊田市にあるトヨタ自動車の体育館でした。辻本英守(大星)が阿蘇行憲(勝又)を失神KOに仕留めた試合が埼玉県浦和にある小松原高校の体育館で行われたことはありますが,民間企業の体育館が興行に使われるのも今ではないことです。
 初めてリングネームのムサシ中野を名乗り,日本ウェルター級1位として登場した中野は,22歳の新鋭ケーンテを開始早々から圧倒します。右フックで腰が落ちたケーンテは早くも防戦一方。左右フックでダウンを奪った中野は続く2回,矢のようなワンツーでケーンテを大の字に沈め,8連続KOの日本記録を達成しました。


鮮烈なKOで東洋タイトル奪取
 快進撃を続ける中野にファンがタイトル挑戦を熱望したのは当然です。67年1月,ついにアピデス・シチラン(タイ)が持つ東洋ウェルター級王座への挑戦が決まりました。日本タイトルを飛び越え,一気に東洋へのアタックでした。
 タイ式ボクシング出身で左フック,右アッパーに破壊力があるアピデス,右フックに絶対の自信を持つ剣豪・中野。KO必至の好カードとあって,後楽園は満員の観衆で膨れ上がりました。
 王者アピデスは2度目の防衛戦。初挑戦の中野は1・2回こそ硬さが見られましたが,3回,テンプルに決まった右フックでアピデスをダウンさせます。右フック2発で2度目のダウンを喫したアピデスにはファイティングポーズを取る余力がありませんでした。ファンの興奮が最高潮に達する中,中野は劇的なKO勝ちで見事に東洋王者に輝きました。幼少時からの苦労が実り,リング上で男泣きした中野の姿が印象的でした。
 9連続KOをマークし,重量級のトップに躍り出た21歳のニューヒーローに世界の期待が集まったのは自然の流れでした。

 わずか5日前に同門の先輩王者ファイティング原田が宿敵ジョー・メデル(メキシコ)に雪辱を果たし,3度目の防衛に成功したばかり。今度は中野の東洋王座奪取が重なり,笹崎ジムは文字通り”我が世の春”を謳歌する状態になりました。
 このとき原田と中野が首相官邸を訪問し,当時の佐藤栄作首相に面会するという名誉な出来事もありました。後に柴田国明がメキシコでビセンテ・サルジバルから世界フェザー級王座を奪って凱旋帰国したときにも米倉会長ともども佐藤首相を表敬訪問するという機会が与えられています。チャンピオンベルトの価値以上に政治家の存在価値の方が情けないほど軽くなっている現在の状態からは考えられないことですが,そういう良き時代だったということです。


不滅の12連続KO 〜 膨らむ世界への期待
 わずか1ヶ月後の67年2月には大阪にマンフレッド・アリパラ(比国)を迎えてノンタイトル戦を行いました。アリパラは東京オリンピックのフィリピン代表チームの主将を務めた選手です。62年にジャカルタで行われたアジア大会で金メダリストになっています。
 中野は初回に左フックでダウンを奪い,3回,今度は左ストレートで再び倒し,自らの22歳の誕生日を10連続KOで飾りました。右フックが主武器の中野ですが,左でも倒せるところを強烈にアピールしました。
 67年4月にはこれもノンタイトル戦でジェシー・コーテッツ(比国)を迎えています。3回,コーテッツの右ストレートでぐらついた中野は4回に反撃に転じ,左ストレートでダウンさせます。5回にもダウンを奪った後,7回,左ストレートからの攻勢で倒し,さらに連打でコーテッツを仰向けに沈めました。

 67年5月,日大講堂で行われた初防衛戦で迎えた相手は古豪フィリピノ・ラバロ(比国)です。中野は2回に右フックでラバロをダウンさせますが,バッティングで右目上をカットし,止まらぬ出血に苦しみます。しかし,8回,ボディ攻撃から攻勢に出て3度倒し,初防衛に成功しました。不滅の12連続KOが達成された瞬間です。

 東洋王者になったことで,中野に世界挑戦の期待が膨らみました。当時の世界王者はカーチス・コークス(米国)。一時は一階級下げてサンドロ・ロポポロ(イタリア)が保持する世界ジュニア・ウェルター級王座への挑戦も囁かれましたが,これは藤猛に先を越されています。
 世界チャンピオンになる前年,ペトランザにKOされている藤。そのペトランザを中野が鮮やかに沈めているだけに,笹崎会長の心は世界挑戦に大きく傾きました。フジテレビでプロモーターのリッチ井上氏と会談し,コークスへの挑戦に向けて動いたのはこの頃です。その席で笹崎会長は8月にホノルルでコークスに挑戦させることを要望しますが,井上氏は世界挑戦の前にワンクッション置くことを主張しました。
 井上氏が主張したワンクッションとは世界ウェルター級の上位ランカーだったピート・トロ(米国),アーニー・ロペス(米国)のいずれかを選んでの挑戦者決定戦でした。ここから中野の運命を大きく狂わせたロペス戦へと繋がっていくわけです。


厚かった世界の壁 〜 ロペスに完敗
 挑戦者決定戦という条件を呑んでアーニー・ロペス(米国)を迎えての12回戦に応じたのは67年8月のことです。場所は原田がジョフレからバンタム級王座を獲得した縁起の良い愛知県体育館でした。
 世界3位・強打の中野と世界5位テクニシャンのロペスが激突するとあって,試合が決まった時点から人気を呼びました。KO率では中野が上回っているだけにファンの期待は大きくなりました。中野は5回まで,ロペスは10回までにと両者からKO宣言が飛び出し,興奮を煽りました。
 しかし,ウェルター級の世界の壁が想像以上に厚く,期待が空しいものであることを思い知らされるのに長い時間は要しませんでした。初回,右ストレートを受けた中野は足がもつれて尻餅。これはスリップダウンとされましたが,2回にロペスが鋭いパンチを披露しました。最初に中野が左右フックでダウンを奪いますが,ロペスは冷静。カウンターの右ストレートを打ち込まれた中野はついにダウン。3回,右ストレートで2度のダウンを喫してKOされました。中野が緊張してガードが下がっていることを見抜き,サウスポー殺しの右カウンターを多用したロペスの技ありのKOでした。
 このロペスにしてホセ・ナポレス(メキシコ)に阻まれて世界に手が届かなかったのですから,いかに世界の壁が厚かったかがわかります。後に実弟のダニー・ロペス(米国)がWBC世界フェザー級王座を獲得していることは御承知の通りです。

 この試合は夜8時というゴールデンタイムにフジテレビで生中継されています。解説は林国治・矢尾板貞雄の両氏でした。当時毎週水曜日の夜10時から欠かさず放送されていた通常のダイヤモンドグローブとは別の特別枠でした。文字通り世界タイトル戦並みの異例な扱いであり,中野に対するフジテレビの期待がいかに大きかったかがわかります。
 ちなみに翌日のダイヤモンドグローブのカードは新鋭だった柴田国明(ヨネクラ)がロバート・アンドラーデ(比国)を5回KOで破った試合です。こんな好ファイトが連日見られたのですから,今考えると痺れます。


険しかった再起への道
 中野はロペス戦での完敗で肉体的にも精神的にもダメージを負いながらも再起しましたが,精彩を欠いた試合が続きました。
 68年1月,金在千(韓国)を迎えて2度目の防衛戦を行いました。金は挑戦が決まっていた任炳模(韓国)が来日不能となり,1週間前に代役となった相手です。中野はタフでパンチ力がある金に手を焼き,11回に何とかストップを呼び込みました。
 4月には岡山で元東洋王者のロッキー・アラーデ(比国)とノンタイトル戦を行いましたが,これは凡戦でした。中野は9回に右フックでアラーデをダウン寸前まで追い込んだものの,KOできずに終わりました。

 68年5月,これもノンタイトル戦で日本ジュニア・ウェルター級王者・荻原繁(東拳)と対戦しました。チャンピオン同士の好カードでしたが,KOを意識した中野は思うように手が出ず,荻原の右ストレートに苦戦しました。それでも6回,左ストレートが炸裂し,荻原は仰向けにダウン。一気にラッシュした中野は右からの左フックで再びダウンを奪います。荻原は立ち上がりましたが,もはや戦える状態ではなく,そのままカウントアウト。
 敗れはしましたが,荻原のうまさが目立った一戦です。荻原は日本タイトルに加え,翌69年1月にはラリー・フラビアノ(比国)を10回KOで降して東洋ジュニア・ウェルター級のタイトルも手にしています。右ボクサータイプで打たれ脆い欠点がありましたが,ここ一番で強さを発揮しました。負け数が勝ち数を上回る珍しいチャンピオンとして知られています。
 荻原は引退後に角海老宝石ジムで後進の指導に当たっていた時期があります。赤井英和(グリーンツダ)のラストファイトとなった大和田正春(角海老宝石)戦では大和田のセコンドに付き,試合前のレフェリーの注意の間に赤井に付き添うエディ・タウンゼント・トレーナーと激しくやり合う場面が見られました。

 脱線したので中野の話に戻ります。
 68年9月,窪倉和嘉(横浜協栄)との3度目の防衛戦が行われました。2回,バッティングで中野が頭部,窪倉が右目上をカット。ドクターチェックの結果,窪倉の傷が深いため,ここで中野のTKO勝ちとなりました。OBF(東洋ボクシング連盟=現在のOPBF)のルールにより,続行不能となった選手がTKO負けとなったものです。中野は不完全燃焼の試合内容で3度目の防衛に成功しました。

 再び世界をと目論んでいた中野ですが,68年10月のノンタイトル10回戦で痛恨の敗戦を喫しました。相手は関西屈指のテクニシャンとして知られた元日本王者・南久雄(中外)です。
 試合は4ヶ月前に新進気鋭の龍反町(野口)を完封した南の技巧が冴え渡り,中野は大苦戦を強いられます。タイミングの良い南のパンチに苦しんだ中野は4回に左アッパーからの右ストレートを受け,腰から落ちてダウン。以降も南の右ストレートで予想外のワンサイドゲームを許しました。終わってみれば7〜9ポイント差がつけられての完敗でした。ロペス戦で負ったダメージのためか,パンチに対する反応の鈍さが気になった試合です。
 地元・大阪で反町に続いて中野にも快勝した南は余勢を駆って前世界王者・金基洙(韓国)から東洋ミドル級,翌69年5月には東洋ウェルター級王座を獲得しました。69年9月にはフレディ・リトル(米国)の世界ジュニア・ミドル級王座に挑戦しましたが,これは2回KO負けを喫しています。


壮絶なラストファイト 〜 無念の引退
 南に手痛い星を落とした中野に対し,ドクターによる『頭部に残るダメージ』の指摘を受けてJBCから引退勧告が出されました。笹崎会長が菊池弘泰事務局長に『もう一度だけやらせて欲しい』と頭を下げて許可をもらったのが,69年2月に行われた東洋タイトルの4度目の防衛戦でした。相手は3年前に対戦してKOで降しているペトランザです。因縁の再戦でした。
 試合は前回にも増してスリリングな展開になりました。リベンジに燃えるペトランザは得意のボディブローで迫りますが,3回,中野は左アッパーからの右フックでダウンを奪います。そして4回,ペトランザの右アッパーに合わせた中野の右フックがアゴに炸裂。まるで居合抜きを見ているような,これ以上ないタイミングの痛烈なカウンターでした。倒れたペトランザは意識を回復せず,担架で搬出されるほどのダメージを被りました。
 やや低迷していた中野が久々に見せた背筋が寒くなるようなKOシーンでした。この試合はペトランザとの第1戦やアピデスから東洋王座を強奪した試合と並ぶ中野のベストバウトだと思います。

 この戦慄のKO勝利は奇しくも中野にとって24歳の誕生日を飾るものでした。しかし,皮肉なことにこれが中野のラストファイトとなってしまいました。ファンは中野の豪打復活に沸きましたが,ペトランザ戦の後に慈恵医大の鈴木敬医師による精密検査を受け,『右半身麻痺』との診断が下されたのです。
 中野は惜しまれつつ引退を表明しました。
 入れ替わるように台頭し,同じサウスポーのハードパンチャーとして一世を風靡したのが同門の後輩ライオン古山です。中野の引退と時を同じくして日本ジュニア・ウェルター級の王座についています。


ムサシ中野という大スター
 中野は元来が右利きであり,それを左構えにしたコンバーテッドサウスポーです。祖父の影響で剣道にも親しんだためか,右手・右足が前に出るサウスポーになったのは自然の流れかも知れません。
 左でも右でも一発で倒せるハードパンチャーですが,前に出た右フックで倒したときに最も中野らしさが出ていました。その破壊力やタイミングの良さは抜群であり,居合抜きのような凄味がありました。サウスポーのハードパンチャーは数多く出現しましたが,あのタイミングの取り方は中野ならではのものでしょう。剣道の達人だった祖父の血筋かも知れません。
 言うまでもなく”ムサシ”というリングネームは宮本武蔵に由来していますが,今になって考えるとよくぞ名付けたという思いです。笹崎会長のセンスに脱帽です。
 引退後に中野の記録を超えようと迫る強打者が多く出現しましたが,今とは比べ物にならないほどハイレベルだった東洋タイトル戦を戦い,世界挑戦を睨みながら樹立した12連続KOの価値はひと際高いものです。
 結局ロペス戦で負ったダメージが尾を引き,再起後の試合で増えた被弾がそれを悪化させたのだろうと思います。ラストファイトのKOが凄かっただけに無念さが募ります。

 引退後は東京・日野市にムサシジムを開設しました。同門の先輩王者・海津文雄をトレーナーに迎え,会長として後進の指導に当たりました。記憶に残る所属選手としては,自衛隊のパラシュート部隊出身で話題を呼んだ変則ファイターのターザン桃原(とうばる)がいます。
 残念なことに中野は96年7月に51歳の若さで他界しましたが,ファンの中には今でも熱烈な信者が多いです。私もその一人です。5年6ヶ月というリングキャリアは決して長いものではありませんが,限られた命の中で切なくも強烈な閃光を放って去った巨星・・・・・そう思えてなりません。



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