忘れ得ぬ戦士たち

(18) スティーブン・N・スミス(フラッシャー石橋=石橋)

戦慄の強打,漆黒の豹

 生年月日  1949年5月25日
 出身地  米国ペンシルバニア州フィラデルフィア
 プロデビュー  1971年4月5日
 ウェイト  ミドル級
 主要タイトル  日本ミドル級(2度獲得)
 タイプ  右ファイター
 終身戦績  29戦18勝(14KO)11敗
 主武器  右ストレート


 全国に米軍基地が点在する日本ですから,ボクシング界も在日米軍とは無縁ではなく,基地に勤務しながら日本でボクサーとして活躍した選手は多いです。古くは”足長おじさん”として親しまれたジョージ・カーターに始まり,ジェリー・コブラペート,カーロス・エリオット,マーク堀越,リック吉村,最近ではチャーリー太田らの名前が浮かびます。
 その中でも最もセンセーショナルに登場したのは,今回紹介するスティーブン・N・スミス(後のフラッシャー石橋)でしょう。
 スミスは70年代初頭に彗星のように現れ,爆発的な強打で日本のファンを震撼させた黒人ファイターです。日本で活躍したのは4年足らずですが,そのインパクトの強さは数多い米軍人ボクサーの中でも特に際立っています。

センセーショナルなデビュー戦
 スミスは米国フィラデルフィア出身。在日米軍の横田基地に所属する軍人として来日しました。そこでボクシングに出会ったと伝えられ,極東ミドル級チャンピオンという肩書がついています。
 石橋ジムに所属し,71年4月に後楽園ホールで行われた堀口和広(オギノ)との6回戦がプロのデビュー戦となりました。結果は開始早々からスミスの右ストレート,左右フックが炸裂し,初回1分21秒KO勝ち。黒豹のように筋肉質でスリムな体から放たれる圧倒的な強打に度肝を抜かれました。
 相手の堀口は日本8位。後にネッシー堀口と改名し,息長く現役生活を続けた選手です。
 スミスを売り出そうとしていた東京12チャンネル(現・テレビ東京)がこの試合を夜7時というゴールデンタイムに生中継しました。放送席の解説者を務めた中村金雄氏は戦前に活躍し,”KOアーチスト”と異名を取ったサウスポーの強打者です。引退後は審判員,解説者,日本経済新聞の記者として活躍した人です。

2戦目で思わぬ挫折
 ド派手なデビュー戦で一気に名前を打ったスミス。早くも日本ミドル級7位に顔を出し,このまま成長すれば日本の重量級は総ナメになるのではと恐れられました。
 2戦目の相手はアニマル藤(タナカ=藤一)。大相撲から転向した元日本ミドル級王者ですが,スミスの敵ではないだろうというのが大方の予想。案の定,初回からスミスの強打が爆発します。左右フックを浴びた藤は仰向けにダウン。足を痙攣させながら立ち上がったものの,連打でフラフラのままゴングに救われました。しかし,2回に入ると様子がおかしくなります。早くも失速したスミスは藤の執拗なボディブローに『もういやだ』という表情。4回開始のゴンブが鳴ってもコーナーから出ず,セコンドに押し出される始末。2度のロープダウンを奪われた末,戦意喪失のKO負けという屈辱を味わいました。

挫折を乗り越えて
 不甲斐ないKO負けで株を急降下させたスミスですが,やはり力は図抜けています。10月には安部小次郎(カジマ)を初回KOに屠って再起しました。
 初めて韓国に遠征し,11月には東洋王者・柳済斗(韓国)にノンタイトル10回戦で6回KO負けを喫しています。東洋王座21度防衛という金字塔を打ち立て,後に輪島功一(三迫)から世界タイトルを奪う柳。スミスにとっては相手が悪かったです。
 年が明けて72年2月。7ヶ月前に屈辱のKO負けを喫している藤一(タナカ)にリターンマッチを挑み,今度はきっちり初回KOで雪辱を果たしました。
 豪州遠征を挟み,72年3月には前日本ミドル級王者・タートル岡部(笹崎)に判定勝ち。2戦目での不甲斐ない失速の印象からスタミナに難があるという評価が定着してしまったスミスですが,後にジュニア・ミドル級も制して日本タイトル2階級制覇を達成した岡部と10ラウンドを戦って勝ち切ったことで再び評価が上がりました。
 2ヶ月後の5月には岡部のリターンマッチを受けました。この試合はスミスのプロキャリアにとって,カシアス内藤戦と並ぶベストバウトの一つと言えるでしょう。序盤から左ファイターの岡部が強引に攻めますが,冷静に動きを読んだスミスは2回に鮮やかな右ストレートのカウンターでダウンを奪いました。これを境に試合は一方的なスミスのペースで進みます。ガードを固めるのに精一杯の岡部に,スミスの鋭いパンチが飛びます。6回,左右の乱打でロープダウンを奪った後,パンチの雨を降らせてトドメを刺しました。
 このときスミスは日本ミドル級1位,岡部は2位。トップランカー同士の対決を制し,スタミナ不足の汚名も返上したスミスは一段と飛躍した姿を披露しました。
 2ヶ月後の72年7月にはタフネスで売る5位の平出弘道(笹崎)を迎えます。平出は左右フックで猪突猛進とばかりに攻勢を仕掛けますが,スミスはスピーディなパンチでこれを許しません。2回に入るや左右フックの乱打で3度のダウンを奪い,平出を一蹴しました。
 12月には柳炯錫(韓国)を7回KOに屠り,3連続KO勝利を飾っています。

鮮烈な日本タイトル奪取 〜 カシアス内藤をKO
 勢いに乗るスミスにタイトル初挑戦のチャンスが巡ってきました。73年2月のことです。世界フライ級王者・大場政夫(帝拳)の事故死というショッキングな事件からわずか1ヶ月後のこと。日本ボクシング界全体が暗く沈む中,スミスは日大講堂でカシアス内藤(船橋)が持つ日本ミドル級王座に挑戦しました。内藤は奪回した王座の初防衛戦でした。
 両者ともに好調でスリリングな展開となりましたが,4回にスミスの強打が火を噴きました。終盤,右ショートストレート2発をアゴに打ち込み,内藤をダウンさせます。5回にもダウン寸前まで追い込み,7回に2度のダウンを奪って内藤を沈め,初のタイトルに輝きました。
 この試合はバンタム級の黒沢元三(野口)vs.内山真太郎(船橋)戦,ウェルター級の辻本章次(ヨネクラ)vs.ブル加藤(笹崎)戦とともにトリプル日本タイトル戦として行われたものです。トリプルタイトル戦とは言え,世界戦でもないのに日大講堂に6,000人もの観客を集めたのですから,プロボクシングの注目度が今とは全く違っていたと言って良いでしょう。

世界は遠し 〜 ダグラスにKO負け
 4連続KO勝ちで日本王座を奪取したスミスに世界の期待が高まったのは当然です。73年5月,世界ミドル級8位のビル・ダグラス(米国)を迎えての10回戦が実現しました。
 スミスは得意の左ジャブ,右ストレートを決めて好スタートを切りますが,3回にダグラスの強打が火を噴きました。ガードが下がったところに右ストレートを食ったスミスは3度のダウンを喫して敗れたのです。
 『ダグラスが逃げなければ5回までにKOする』と豪語していたスミスですが,世界の壁の厚さを思い知らされる結果になりました。
 ちなみにこのダグラスは後に東京ドームでマイク・タイソン(米国)をKOして世界ヘビー級王座を奪ったジェームズ・バスター・ダグラス(米国)の父です。

龍反町との死闘
 世界の壁には跳ね返されたスミスですが,73年7月には一階級下の東洋王者・金沢英雄(神林)の挑戦を受ける形で日本タイトルの初防衛戦を行いました。一階級下とは言え,格は金沢の方が上。しかし,金沢が無難に切り抜けたのは初回だけで,後は一方的なスミスのペースで進みました。8回に連打を浴びせてダウンを奪ったスミスは右ストレートからの左アッパーで再び金沢を倒し,見事なKOで再起戦を飾りました。
 スミスはこの試合から気分一新を図るためにフラッシャー石橋というリングネームに改名しています。

 再び勢いに乗ったスミス。10月には東洋ウェルター級王者・龍反町(野口)との黄金カードが実現しました。ウェルター級で東洋無敵を誇っていた反町は最も脂が乗っていた時期。対するスミス改めフラッシャー石橋は二階級上で猛威を振るうハードパンチャー。まさにこれ以上ない好カードは試合が決まった時点から人気を呼び,後楽園は満員のファンで埋まりました。
 試合はパワーで勝るスミスが序盤から反町を圧倒します。スピーディなワンツー,左右フックの連打に反町はロープ伝いに後退を続け,防戦一方。しかし,誰もがスミスのKO勝ちを確信した6回,思わぬ落とし穴が待っていました。ガードを固めてスミスの激しい攻撃に耐えていた反町がロープを背にして放った右ストレートがアゴを捉えます。がくんと腰を落としたところにロープの反動を利用した左フックが決まり,たまらず仰向けにダウン。スミスは必死に立ち上がりますが,足元が定まらずカウントアウトされました。立ち上がろうとしていたスミスが浮かべた『何が起きたんだ』とでも言っているような表情が印象的でした。
 反町に勝てば一気に世界への道が開けたかも知れませんが,米国から応援に来た母親マリーの目の前で痛恨の逆転KO負け。さらにミドル級の正規ウェイトで戦ったために,虎の子のタイトルまで剥奪されるという憂き目を見たのです。
 勝った反町は6日後に挙式を控え,婚約者がホールで応援中。何が何でも負けられない試合でした。

 この試合も東京12チャンネルが生中継しましたが,大場政夫(帝拳)vs.チャチャイ・チオノイ(タイ)戦と並んで1973年を飾る名勝負と言っても過言ではありません。個人的には後楽園ホールで演じられた数々の逆転KOの中でもベストテンに入ると思います。今でもテレビ東京のボクシング中継の冒頭にこの試合のKOシーンが使われることがあります。またフルラウンドの映像も出回っています。

ちょっと脱線しますが・・・
 東京12チャンネルと言えば,歯に衣着せぬ海老原博幸氏の辛口解説,名物男・杉浦滋男アナの実況が懐かしいです。海老原さんは相手が誰であろうと耳の痛いことをどんどん言ってしまうのが常であり,見ている者が感じているのと同じことを直言してくれていたのが痛快でした。御健在なら,今のボクシング界にどんな直球を投げていたかと思うことがあります。
 しかし,日和見主義の今のテレビ局は海老原さんを解説者には起用しないでしょう。最後まで起用して直球を投げ続けさせた当時の東京12チャンネルの姿勢は立派でした。
 さらに脱線は続きますが,東京12チャンネルのボクシングに対する熱意は当時から有名でした。通常の定期放送に加えて,『ちびっこタイトルマッチ』と銘打ってキッズボクシングを毎週金曜日のゴールデンタイムにレギュラー放送していました。これは小学校低学年ほどの子供がグラブのナックルパートにインクを付けた布を貼って試合を行い,勝敗を決めるのものです。私の記憶では夜7時からの30分番組でデン助こと大宮敏光,動物の物まねで人気の江戸屋猫八師匠が審判員ならぬ審査員として出演していました。野口恭氏(野口ジム会長=故人)がレフェリーを務めていたようにも記憶しています。スタジオには塙賢二先生という小児科の医師が”リングドクター”として陣取るという万全の備えをしていました。
 今では考えられないような番組ですが,古き良き時代ということでしょう。

故国に帰る 〜 キャリアの終焉
 脱線が続いたので,スミスの話に戻ります。
 反町戦での敗戦によって王座を剥奪されましたが,わずか1ヶ月後の73年11月には堀畑道弘(山神)を3回KOに屠って奪回しています。その試合を含めて4連勝と再び上昇気流に乗りかけた頃,スミスは故郷フィラデルフィアに妻子を連れて帰国しました。日本でのラストファイトは一度KOしている柳炯錫(韓国)を6回終了TKOで返り討した試合です。

 帰国後もスミスは精力的にリングに上がりました。しかし世界的強豪との対戦もあったため,急激に負けが込むようになりました。
 75年に入るとエディ・グレゴリー(米国),スタンレイ・ヘイワード(米国),ジャン・マテオ(フランス)に3連続KO負けとなりました。グレゴリーはエディ・ムスタファ・ムハマッドと名乗って後に世界ライトヘビー級王者になった強豪,ヘイワードは来日して南久雄(中外)を沈めたフレディ・リトル(米国)と世界ジュニア・ミドル級王座を争った古豪です。
 スミスは連敗を脱して3連勝と上昇気流に乗りかけますが,後の世界ライトヘビー級王者マイク・ロスマン(米国)には歯が絶たず,6回KOで退きました。これを含めて4連敗となり,ついにリングを降りました。ラストファイトは78年9月にキース・ブルーム(米国)に8回KO負けでした。

日本重量級を鍛えた家庭教師
 重量級での世界挑戦を視野に入れることが難しかった時代,衛星放送もなく海外の情報に乏しかった時代に出現したスミス。日本人には到底真似ができないスピードと強打に感嘆し,遠い本場の重量級に思いを馳せたファンも多いでしょう。そのスミスにして世界ランカーのダグラスにはKO負け,さらに帰国後には幾多の世界的強豪と対戦してKOで跳ね返されています。
 後年竹原慎二(沖)が初めてミドル級で世界のベルトを手にしますが,70年代のファンはスミスを通して重量級のとてつもない壁の厚さに嘆息したものです。層が薄い日本の重量級にとって,スミスは当時の選手だけでなくファンにとっても最高に厳しい”家庭教師”だったかも知れません。
 そのボクシングは精悍そのもの。黒豹のような漆黒のボディから伸びる左ジャブ,閃光のような右ストレート,相手が姿勢を低くした時に浴びせる左アッパー,さらに怒涛のような左右フックの連打もありました。黒人特有のバネを利かせたパンチのスピードと破壊力には凄まじいものがありました。その一方で打たれて強い方ではなく,自らも度々キャンバスに沈んでいます。

 デビュー戦で感じた衝撃は言葉では表現できません。得体の知れない新人のために東京12チャンネルが夜7時から生中継に踏み切ったのも理解できます。
 ベストバウトを選べと言われたら,タートル岡部との第2戦,カシアス内藤戦を推します。この2試合はスミスの真骨頂だと思います。逆転されましたが,もちろん龍反町戦も歴史に残る名勝負です。
 日本人女性と結婚し,陽気で明るく家族を愛したスミス。日本流に言えば還暦を迎えているはず。今頃どうしているでしょうか。



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