忘れ得ぬ戦士たち

(17) 徐 強一(韓国)

戦災孤児から這い上がった無冠の帝王

 生年月日  1939年7月12日
 出身地  韓国ソウル
 プロデビュー  1961年4月16日
 ウェイト  ジュニアライト級
 主要タイトル  韓国フェザー級
 タイプ  右ボクサーファイター
 終身戦績  52戦41勝(13KO)11敗
 主武器  ワンツー,左右フック


 豊かになった最近の日本では死語になっているかも知れませんが,昔からボクシングはハングリースポーツと言われます。貧しい境遇の中から這い上がり,拳一つで富と名声を築くサクセスストーリーには枚挙に遑(いとま)がありません。
 その中でも韓国が生んだ無冠の帝王・徐強一はハングリースポーツの申し子と言っても良いでしょう。
 今回はその足跡を辿ってみることにします。

朝鮮戦争で一家離散 〜 辛酸を舐めた少年時代
 1945年の第二次世界大戦が終わりを告げた朝鮮半島には,韓国と北朝鮮が相次いで建国されました。韓国には自由主義圏の盟主・米国,北朝鮮には社会主義圏の大国・ソ連がバックにつきました。両者は北緯38度線を隔てて対峙し,朝鮮半島は分断されたのです。50年6月,その朝鮮半島における主権を巡り,北朝鮮が軍事境界線を越えて韓国側に侵攻しました。これが朝鮮戦争の勃発です。
 3年間に及ぶ激戦を経て53年7月に休戦協定が結ばれたのですが,これはあくまで休戦であり,60年を経た現在でも軍事的な緊張状態が続いていることは御存知の通りです。
 朝鮮戦争は一進一退の展開を辿り,両陣営を合わせて数百万人単位の犠牲者を出しました。しかし,犠牲はそれだけではありません。休戦後は南北間の往来ができなくなったため,家族が南北で離散してしまう”離散家族”という悲劇を生んだのです。
 徐は39年にソウルのごく一般的な家庭に生まれ育ちました。ところが朝鮮戦争の混乱の中で一家離散という悲劇に見舞われてしまいます。11歳だった徐はプサンの孤児院に入れられたのです。

ボクシングとの出会い
 少年時代の徐は辛酸を舐め,ストリートファイトに明け暮れたと述懐しています。
 ソウルに流れ着いた徐はそこでボクシングと出会います。幸運だったのは名指導者として知られる金俊鎬氏の手ほどきを受けたことでしょう。
 デビューは61年4月,ソウルでの6回戦で黄竜洙に判定勝ちしました。翌62年4月には李理吉を5回で倒し,早くも韓国フェザー級タイトルを獲得しています。
 63年4月,ソウルに高山一夫(帝拳)を迎えて10回戦を行いました。キャリア晩年に入っていたものの,破格の強打で2度の世界挑戦を誇る高山はさすがに強く,徐は判定負けを喫しました。

日本で強くなった徐
 初来日は同じ63年の12月,虎谷一吠(新和)に判定勝ちしています。余勢を駆ってわずか27日後の大晦日には関光徳(新和)が持つ東洋フェザー級王座に挑戦しましたが,これは相手が悪かったです。徐はここでも敗れ,タイトル奪取に失敗しました。後に12度防衛の金字塔を打ち立てる関にとっては4度目の防衛戦でした。
 虎谷戦からは日本での試合が続きました。東洋挑戦に失敗した徐ですが,翌64年には小林弘(中村),勝又行雄(不二)にいずれも勝っています。後に世界チャンピオンになる小林は当時19歳の新鋭。野武士のような豪快なファイターとして鳴らした勝又はキャリア晩年でした。勝又は引退後に勝又ジムを興し,開行憲(=阿蘇行憲),歌川善介,坂本博之らを育成しました。
 小林,勝又というトップクラスを連破した徐にビッグチャンスが訪れました。強豪フラッシュ・エロルデ(比国)が保持していた東洋ライト級王座への挑戦が実現したのです。64年11月マニラに乗り込んだ徐は善戦しましたが,2−0という僅差の判定で敗れました。しかし,エロルデを苦しめた徐はこの一戦で高い評価を受けました。
 翌65年6月にはソウルにラリー・フラビアノ(比国)を迎えました。徐は東洋2階級を制覇した強豪フラビアノを判定で破っています。
 強豪を破った徐に再びチャンスが巡ってきました。12月,ケソンシティでエロルデとの再戦が実現したのです。今度は世界ジュニアライト級王座への挑戦でした。3−0で敗れましたが,この試合でも徐は巧みな試合運びでエロルデを苦戦させました。

 翌66年2月には当時の東洋ジュニアライト級王者・沼田義明(極東)とノンタイトルで対戦しました。
 この試合で徐は初回に右フックで沼田からダウンを奪います。中盤から後半にかけては実力者同士の息詰まるような駆け引きが展開されました。やや荒っぽく雑になった徐に対して,沼田はしだいに調子を上げますが,結局徐が僅差で判定勝ちを収めています。しぶとく老巧な徐の真骨頂が発揮された一戦でした。

 この66年は沼田戦の他に日本で石山六郎(極東),奄島勇児(鈴木)というチャンピオンクラスと対戦し,いずれも判定勝ちを収めています。石山は本名・石山忠で,沼田と同門です。TBSの『ボクシング教室』から東洋王者になった人です。
 徐は日本での試合の合間の66年10月にマニラに遠征し,レネ・バリエントス(比国)とグラブを交えて判定負けを喫しました。日本でもお馴染みのバリエントスは後に世界王者になったサウスポーの強豪です。

 徐は日本で強くなった韓国人と言っても良いでしょう。67年2月には小林弘との再戦に次いで,染谷彰久(野口),東海林博(ヨネクラ)らとグラブを交えました。成長した小林には雪辱を許していますが,染谷と東海林を破ったことは徐の評価をさらに高めました。染谷は近大で鳴らしたアマチュアのエースで,東京オリンピックの代表候補にも名を連ねたハードパンチャーです。プロ入り後は日本王者になっただけでなく,世界1位まで上り詰めてカルロス・オルチス(プエルトリコ)の持つ世界タイトルへの挑戦も囁かれた強豪でした。東海林も昭和40年代を飾るタフなファイターです。

 67年7月,初めて渡米した徐はロスで売り出し中のマンド・ラモス(米国)を判定で破りました。後に世界王者になるラモスに初めて土をつけたことにより,徐の評価は不動のものになりました。
 ロスで1試合を挟んだ徐は9月にラウル・ロハス(米国)と対戦することになります。ロハスが持つカリフォルニア州公認の世界ジュニアライト級タイトルへの挑戦でした。しかし,ロハスの強打を受けた徐は4回と8回にダウンを喫し,大差の判定で敗れました。

沼田との死闘 〜 落日
 翌68年は徐にとって最後の輝きを放った年になりました。2月には前年に破っている東海林博をソウルに迎えたリマッチを制します。
 そして6月,2年前に一度は破っている沼田義明が持つ東洋ジュニアライト級王座に挑戦しました。
 この試合は東洋王者・沼田と世界1位の徐という超豪華なカードであり,今なら間違いなく世界戦として行われるべき試合です。これを考えれば,いかに当時の東洋タイトルの価値が高かったかがわかると思います。
 沼田は前年の12月に小林弘にKO負けを喫して世界タイトルを失ったばかり。実力者・徐に雪辱を果たし,再び世界に躍り出ようとしていました。徐も世界への再挑戦を狙っていました。お互いに負けられない正念場です。
 2年前の第1戦同様に,序盤は徐が荒々しい攻撃で主導権を握りました。しかし,7回に落とし穴が待っていました。右アッパーを突き上げようとしたところに沼田の右フックが炸裂。痛烈なカウンターでした。これをまともに食って膝から沈みかけた徐は何とか踏み止まりますが,トドメの右アッパーでうつ伏せにダウン。立ち上がろうとしましたが足腰が言うことを聞かず,カウントアウトされました。徐にとって,これ以上ない痛恨のKO負けでした。
 精密機械と称された沼田はスピードが売り物でしたが,しばしばこのように派手なKOシーンで沸かせました。ラウル・ロハス戦の逆転KOが有名ですが,私は徐との第2戦こそが沼田のベストバウトだと思います。68年の年間最高試合はダウンの応酬になった西城正三vs.フラッシュ・ベサンデ(比国)戦が選ばれましたが,技術的なレベル,試合としてのスリルのいずれにおいても沼田vs.徐戦の方が上でしょう。

 結局,沼田との死闘が徐にとって日本のファンに見せた最後の雄姿となりました。失意の徐はリングから遠ざかりました。翌69年,70年と間をおいて韓国のリングに上がりましたが,72年4月のプサンでの試合を最後に引退しました。

日本ボクシング界の師
 徐のボクシングは非常に幅が広いです。老獪なアウトボクシングで玄人筋を唸らせたかと思えば,一転して激しい打撃戦も展開しました。173cmの長身から繰り出す左ジャブ,ワンツー,左右フックを武器とするスピーディな攻撃を得意としています。荒々しさが災いして攻撃が雑になる欠点はありましたが,ロープ際でのボディワークなどのディフェンステクニックにも秀でていました。

 文字通り世界を股にかけて強豪との激戦を繰り返しました。世界1位にランクされましたが,その半面,ごく初期に韓国の国内タイトルを手にしただけです。世界はおろか東洋のタイトルにも手が届きませんでしたが,世界王者経験者の小林弘,沼田義明,マンド・ラモスらを破った試合が実力を物語っています。そういう意味では限りなく無冠の帝王に近い名選手と言えるでしょう。
 1960年代に合計12度も来日し,生涯戦績の実に4分の1を日本で戦いました。テレビのボクシング中継が華やかなりし当時を語る上で欠かせない外国人ボクサーの一人と言えます。
 当時の日本の一線級とは数多くの死闘を演じています。まさに日本ボクシング界の前に立ち塞がった宿敵と言えるでしょう。そのおかげで日本の中量級が世界と戦えるまでにレベルアップした側面もあります。私はこれがその後フェザー級からライト級にかけて続々と日本人の世界王者が誕生する伏線になったと考えています。そういう意味では日本ボクシング界にとっては師と言えるかも知れません。
 朝鮮戦争という歴史に翻弄されて悲惨な境遇を背負った徐ですが,荒々しい攻撃を展開するその背中からは,拳一つで自らの未来を切り拓いた逞しさを感じます。健在であれば70歳を超えているはずですが,火を吹くような激しい攻撃を仕掛ける雄姿が忘れられません。



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