忘れ得ぬ戦士たち

(16) 磯上秀一(辰東)

装り無用の偉大なる頑固者

 生年月日  1955年10月24日
 出身地  福島県いわき市
 プロデビュー  1975年5月3日
 ウェイト  バンタム級
 主要タイトル  日本バンタム級
 タイプ  右ファイター
 終身戦績  40戦30勝(20KO)6敗4分
 主武器  左右フック


 昭和50年代のリングを飾った磯上秀一も,ファンにとっては忘れられないファイターの一人です。無骨で頑なまでにストイックな生き方を押し通した”偉大なる頑固者”が描いた軌道を辿ってみることにしましょう。

快進撃で新人王に 〜 三船豪との因縁
 磯上のデビューは75年5月,運天政津(笹崎)を初回54秒でKOしています。トントン拍子に勝ち上がり,1引き分けを挟んで6連勝(5KO)という快進撃で75年12月の東日本新人王決勝戦に進出しました。この試合はテレビで放送されましたが,磯上は斎藤誠(小島)を左右フックの連打で圧倒して2回KOに屠り,バンタム級の第32回東日本新人王に輝いています。
 翌76年3月には初めて大阪のリングに上がり,熊谷誠(大星)に6回判定勝ちで第22回全日本バンタム級新人王のタイトルをも手中にしました。

 磯上は12戦目でベテランの三船豪(草加有沢)に判定負けを喫し,初めての苦汁を味わいます。この三船(本名・須田芳黄)は9年間で比国・メキシコ・ロス・ハワイ・韓国などへの遠征も含めて45戦というキャリアを残したサウスポーの強打者です。フジテレビ系のダイヤモンドグローブではセミファイナルの常連としてお馴染みでした。奥さんがメキシコ人で,試合中にアナウンサーが良くそれを話題にしていたことを覚えています。三船豪というリングネームは,1960年代にフジテレビ系で放送されていた『マッハGoGoGo』という人気アニメの主人公(三船剛)から名付けたものと言われています。私のような50歳を越えたオジサンには懐かしいアニメです。当時は我が家も白黒テレビだったので,このアニメがカラーで放送されていたことを知ったのはずっと後になってからです。
 三船は現在トクホン真闘ジムで佐々木隆雄会長のもと,チーフトレーナーを務めています。実はトクホン真闘ジムの前身は磯上が所属していた辰東ジム。磯上を育成したのは佐々木会長で,三船は現役時代にその師弟コンビと戦ったわけです。その辰東ジムの初代王者・磯上に初黒星を与えた三船が,磯上を指導した佐々木会長のもとで後進の指導に当たっている・・・・・これも不思議な縁です。

宿敵との戦い 〜 ハリケーン・テル,笠原優,石垣仁,高田次郎
 話が大きく脱線してしまったので,本題に戻しましょうか。
 磯上は15戦目の77年6月に,その三船に判定勝ちで見事に雪辱を果たしています。わずか2ヶ月後には,後にバンタム級で日本王者になった新鬼丈(広島三栄)を6回KOで破りました。
 77年11月,磯上はハリケーン・テル(石川)と初めてグラブを交えて判定勝ちしました。後述のように,テルとは生涯で4度もグラブを交え,文字通り宿敵中の宿敵という間柄になっています。
 翌78年8月には,当時の東洋バンタム級王者・金栄植(韓国)に異例のノンタイトル12回戦を挑みました。放送席のゲストには,6日前にWBA世界J・ミドル級王座を獲得したばかりの工藤政志(熊谷)が招かれました。金は世界2位に名を連ねていたテクニシャンで,日本人には6戦全勝という強豪でした。案の定,序盤は金が速い左ジャブ,左右フックでリードします。しかし,磯上は6回に右アッパーからの連打で金を棒立ちにさせ,以降は執拗な連打で主導権を握りました。結局,磯上は見事な判定勝ちで大金星を上げています。

 79年は磯上の8年間のポクサー生活の中で最も印象深く充実した年だったでしょう。磯上の実力が上がって脂が乗り切ったことはもちろんですが,対戦相手のレベルや試合内容から考えてもそのように言えると思います。
 まず1月には当時の日本J・フェザー級王者・笠原優(SB川口)とのノンタイトル戦が実現しました。
 笠原はアマチュア出身(横浜高→中大)で,中大時代にはフライ級で全日本王者に輝いた強打者でした。1年前には洪秀煥(韓国)のWBA世界J・フェザー級王座に挑戦し,5度のダウンにもめげず王者・洪をあわやというところまで追い詰めています。強打とグラスジョーを併せ持ち,アマ出身とは思えぬ激闘男として人気がありました。本職が葬祭センターに勤務する”葬儀屋さんボクサー”ということでも話題になった異色の選手です。現在は日東ジムで後進の指導に当たっています。
 登り竜のファイター磯上と一階級上の現役日本王者・笠原との対決は強打者同士ということで人気を呼び,後楽園ホールは超満員のファンで膨れ上がりました。不利を予想されていた磯上ですが,激しい打激戦の末に10回に左右フックの連打で笠原を捉え,見事にKO勝ちしています。この試合は『エキサイトボクシング』の歴史を飾る名勝負の一つと言っても過言ではありません。
 笠原をKOに屠ったことで,無冠ながらも磯上の地位は不動のものになりました。私は笠原戦が磯上の出世試合であると考えています。

 4月に比国のトップランカーであるエディ・ミラル(比国)を8回KOに破った試合では,磯上は世界7位につけています。
 その後も次々にライバルとの対戦が求められ,同じ年の6月には石垣仁(ヨネクラ)との10回戦が実現しました。石垣はモントリオール五輪のバンタム級代表からプロ入りしたアマ(酒田南→専大)の名選手で,アマチュア出身らしからぬ激しいファイトを身上とした右ファイターです。
 世界6位の磯上に,日本1位でオリンピアンの石垣・・・・・この試合も異常な人気を呼びました。パンチ力があるファイター同士ということで噛み合ったためか,期待を裏切らない壮絶な打撃戦になりました。石垣はオリンピアンの意地を十分に見せましたが,7回に左フックでついにダウン。8回にロープダウンを奪った磯上が9回に左右フックの連打で石垣をKOしました。あまりの激戦に,リングサイドクラブから3回と6回に二度も金一封が贈呈されるという異例の試合になりました。
 その後石垣は一度はハリケーン・テルから日本タイトルを奪いましたが,リターンマッチで敗れて大成せずにリングを去っています。

 10月には高田次郎(横浜協栄)との好カードが組まれました。高田は東洋と日本のフライ級を制覇し,世界挑戦も2度経験している古豪です。世界4位にまで上昇していた磯上ですが,『世論の賛同を得ないうちは世界挑戦させない』という佐々木会長の方針で次々に厳しいマッチメイクになったものです。すでに下降線を辿りかけていた高田ですが,単調な磯上は高田の技巧に苦戦して分の悪いドローで辛うじて面目を保ちました。

世界挑戦 〜 無念のTKO負け
 80年代に入り,ここまで24戦してタイトルには無縁だった磯上に世界挑戦の話が持ち上がりました。相手はWBA世界バンタム級王者ホルヘ・ルハン(パナマ)です。歴史に名を残す強打のアルフォンソ・サモラ(メキシコ)を10回KOで降して王座を奪い,これが5度目の防衛戦という強豪です。
 試合は80年4月,蔵前国技館で行われ,テレビ朝日が全国に生中継しています。
 ルハンが打たれ脆いという前評判が流れたせいか,磯上が得意の接近戦に持ち込めば連打でKOできるのではという希望的予想もありました。しかし,その期待が無意味であることをファンが悟るのに,長い時間は必要としませんでした。
 磯上は勇敢に攻め込みましたが,ルハンは単調な動きを読んで右ストレート,アッパーで確実に追い込んでいきます。8回,磯上はボディ攻撃でロープに詰めますが,ルハンはインサイドから左右アッパーを返して徐々に磯上を弱らせます。鼻からの出血に加えて右目上をカットし,両目も腫れた磯上は9回,コーナーに詰まってルハンの攻勢に晒されてストップされたのです。その瞬間,興奮したファンが座布団や空き缶などをリング上に投げ入れたために混乱しました。
 顔面が別人のように膨れ上がった磯上は日大病院に運ばれました。試合を目前に控えた磯上が40℃もの高熱を出していたことが判明したのは試合後のことです。頑固一徹で弱音を吐いたことがない磯上ですが,このときばかりは佐々木会長に助けを求めたようです。
 ルハンは引退するまでに9敗を記録していますが,KO負けが一度もありません。それだけしっかりしたテクニックに裏打ちされた強豪だったと言えます。磯上がベストコンディションでリングに上がっていたとしても,やはり勝機は薄かったものと思います。

日本バンタム級チャンピオンとして
 世界挑戦に失敗した磯上は日本タイトル戦のリングでその存在感を強烈にアピールしました。
 ルハン戦から3ヶ月後の80年7月には,上江洲隆(角海老宝石)を9回KOで退けました。無冠のままリングを去った上江洲は世界ランキングにも名を連ねたサウスポーで,その後隆盛を極めることになる角海老宝石ジムの草創期を飾った貴重なタレントでした。

 その年の12月,磯上はハリケーン・テルの日本バンタム王座に挑戦します。テルとは2度目の対戦でしたが,これは完敗に終わりました。磯上は初回30秒過ぎにテルの右クロスで早くもダウン。右ストレートで2度目のダウンを喫した磯上は必死に応戦しますが,最後は左フックをテンプルに受けて3度目のダウン。磯上はテルの速攻の前に3分持たずに退いたのです。3年ぶりに雪辱を果たしたテルと石川圭一会長がリング上で喜びを爆発させる姿が印象的でした。

 81年6月,後の日本J・バンタム級王者・糸数勤(帝拳)とは4回負傷引き分けに終わった磯上ですが,10月には再び日本バンタム級王座に挑むチャンスを迎えました。これはルペ・ピントール(メキシコ)のWBC世界バンタム級王座に挑戦が決まったハリケーン・テルが返上した空位のベルトです。相手は三井英晴(上福岡)ですが,世界挑戦や数々のタフファイトを経験した磯上からすれば格下相手の試合でした。
 世界5位としてリングに上がった磯上にキャリアの浅い三井では,勝敗の帰趨は明白です。執拗な連打で三井をダウン寸前に追い込んだ3回以降はワンサイドゲームになりました。磯上は4・5回にロープダウンを取り,6回に集中打を浴びせてKOで初めてのタイトルを手にしました。

 ピントールとの世界戦で15回KO負けの完敗を喫したハリケーン・テルが,磯上の手に渡っていた日本タイトルを狙ってリングに復帰しました。両者の3度目の対戦が実現したのは,82年1月です。
 実力者同士の対戦とあって,後楽園ホールは超満員。試合内容も期待通りの熱戦でした。前半はテルのスピーディな左ジャブ,フックにリードを許した磯上ですが,中盤から連打で追い上げます。第2戦で派手に倒された磯上は,宿敵テルを判定勝ちで退けて初防衛に成功しました。ルハン,テルに相次いで敗れて磯上も下降線かと思われていましたが,これは見事な復活劇でした。

村田英次郎との死闘
 テルを退けた磯上に対し,人気絶頂の東洋バンタム級王者・村田英次郎(金子)との対戦をファンが熱望したのは当然でしょう。
 テル戦からわずか2ヶ月後,東洋のベルトをかけて村田への挑戦が実現しました。82年3月のことです。やや距離を取って放つ強烈な右ストレートのカウンターにKOの威力を秘める村田,接近戦での執拗な連打でKOする磯上・・・・・後楽園ホールは考えただけでも震えそうな好カードに吸い寄せられた超満員の観客を呑み込んだのです。
 前売りチケットは発売と同時に完売という有様でした。関光徳(新和)に並ぶ東洋王座12度防衛の金字塔を打ち立てた村田にとっては8度目の防衛戦。磯上は78年に当時の東洋王者・金栄植とのノンタイトル戦で勝っていますが,初めての東洋挑戦でした。放送はTBS,解説は白井義男・具志堅用高のコンビです。村田はTBS系,磯上はテレビ朝日系の看板選手,テレビ局の系列を越えた黄金カードにファンが熱狂したのも無理はありません。
 しかし,ここまで2度の世界挑戦に失敗したとは言え,ピントールとドローに持ち込んだ村田の実力はさすがでした。磯上は果敢に打ち合いを挑みますが,村田のカウンターを警戒して思惑通りの接近戦に持ち込めません。2回に右フックでぐらついたところに右ストレートを追い打ちされてダウン。3回,右ストレートで膝をついてダウンを喫した磯上。打ち合いの中で真正面から右フックをカウンターされ,右膝を折るように痛烈なダウン。最後は攻勢に晒され,青コーナーに崩れ落ちて万事休す。磯上は3回KO負けの完敗に退きました。

キャリアの終章
 村田に完膚なきまでに倒された磯上。もはやここまでと思われましたが,保持していた日本タイトルは地道に防衛を続け,結局5度の防衛を果たしています。
 2度目の防衛戦(82年7月=9回TKO勝ち)で迎えた大橋克行(協栄河合)は後のWBA・WBC世界ミニマム級王者・大橋秀行(ヨネクラ)の実兄です。目から額にかけての感じが実に良く似ており,さすがに兄弟だという感じがします。今でも大橋ジム主催の試合では家族で観戦している姿を見かけます。弟は軽量級らしからぬ強打者でしたが,兄はパンチが非力で人気は今一つでした。
 また3度目の防衛戦(82年9月=判定勝ち)で対戦した大山清(小山ヨネクラ=本名・長嶋清)は引退後に茨城県でエイティーン古河ジムを興し,会長を務めています。つまり長嶋建吾(エイティーン古河)の父上というわけです。息の長い選手で,12年以上も現役生活を続けました。
 同型のファイタータイプ大山が相手とあって力でねじ伏せにかかるのではとの予想に反し,磯上は左ストレートを突いて打ち気を反らしながら左右フックを浴びせるテクニシャンに変身した姿を披露しました。7回には大山の右クロスでぐらつく場面を見せた磯上ですが,試合はほぼワンサイドゲームでした。
 82年11月には4度目の防衛戦にテルを迎えました。実にこれが4度目の対戦です。右肘を痛めているテルは決め手となる右ストレート,フックが出ず,やや消極的な印象。磯上もテルの速いフットワークに手を焼き,決め手を欠きました。盛り上がりに欠ける試合でしたが,磯上が僅差でテルを退けています。
 翌83年2月に佐藤一美(進光)を破って5度目の防衛に成功しています。
 しかし,磯上の頑張りもここまで。4月には若手の今里光男(トーアファイティング)に4回KO負けを喫してベルトを譲りました。8月にはリターンマッチを挑みますが,これも9回TKO負けで退いています。結局これがラストファイトになりました。

磯上秀一という男
 磯上はキャリアの途中で”磯上修一”と改名してリングに上がっています。6割強という高いKO率をマークしていますが,一発で倒すパンチャーではありません。むしろ執拗な連打に次ぐ連打で相手が音を上げるまで押しまくる展開を得意としていました。ガウンも羽織らずにリングインし,勝っても負けても無表情。一切の飾りを頑なに拒否した無印良品という感じの姿が印象的です。後年マイク・タイソンがガウンなしでリングに上がって次々に相手を沈めましたが,私は初めてタイソンを見たときに磯上の姿がオーバーラップしたことを覚えています。
 その試合スタイル同様に性格も頑固一徹だったようで,父親と喧嘩して口をきかなくなり,高校卒業後に家を出て以来10年以上父親に会わなかったと伝えられました。引退後に和解したと言われていますが,いかにも磯上らしいエピソードです。
 磯上を指導していた佐々木会長もスパルタ式でボクシング界に名を轟かせた人です。頑固一徹の磯上と筋金入りの熱血漢・佐々木会長との葛藤はさぞかし凄まじかっただろうと想像できます。

 ルハン戦では惨敗となりましたが,磯上のリングキャリアを絢爛豪華に飾っているのは,何と言っても数々の宿敵との死闘でしょう。佐々木会長の厳しいマッチメイクもあったでしょうが,これらの修羅場を潜り抜けたキャリアが共感を呼んでいるものと思います。強豪から逃げずに堂々と対峙した姿勢が,無表情でストイックに打ち込む姿と重なって磯上の輝かしい戦歴をさらに眩しく照らしています。
 中でもハリケーン・テルとは生涯で4度もグラブを交えており,文字通り宿敵中の宿敵と言って良いでしょう。3分持たず派手にKOされた第2戦の印象が強いですが,実は磯上が3勝1敗と勝ち越しています。また笠原優,石垣仁,高田次郎,村田英次郎らとの火を噴くような打激戦も忘れられません。

 磯上はテレビ朝日系の『エキサイトボクシング』の全盛期を飾ったスターの一人です。
 テレビ朝日は前身のNET(日本教育テレビ)の時代からボクシング中継には熱心でした。古くは昭和30年代に遡り,『ゴールデンボクシング』と銘打って中継していました。高山勝義(木村)の出世試合となったベビー・ロロナ(比国)戦なども放送しています。ちなみに高山vs.ロロナ戦の実況を担当したのは,寄席などの演芸番組や大宮敏充の『デン助劇場』でお馴染みだった同局の看板アナウンサー馬場雅夫氏でした。
 紆余曲折を経て74年4月に歌川善介(勝又)vs.ロメオ・トマガン(比国)戦で『エキサイトボクシング』として定期放送を再開してから,2003年7月の金山俊治(ヨネクラ)vs.呉炳哲(韓国)戦を最後にボクシング中継から撤退するまで長寿番組としてファンに親しまれました。この間に小熊正二,工藤政志,中島成雄,小林光二,大橋秀行,吉野弘幸,川島郭志,星野敬太郎ら多くのスターを輩出していることは御承知の通りです。
 73年9月にはジョージ・フォアマン(米国)を招聘し,国内初の世界ヘビー級タイトルマッチを放送しています。また日本にも熱烈なファンが多い”ロープ際の魔術師”ことジョー・メデル(メキシコ)のラストファイトになったロイヤル小林(国際)との一戦(74年6月)も同局が生中継しています。

 その中でも磯上がスター選手として台頭した70年代中盤から80年代前半にかけてが,テレビ朝日がボクシングに最も力を入れていた時代であると考えられます。
 磯上は厳しいマッチメイクが続いてテレビ局に酷使されたことは否定できませんが,そのおかげで数々の宿敵との対決が実現した側面はあります。これは表裏一体だと思います。
 全盛期は78年から79年頃であると考えますが,必ずしも世界挑戦のタイミング(80年4月)が悪かったとは思えません。この頃は宿敵を次々に撃破し,脂も乗り切って充実していた時期です。タイミングを逸した世界挑戦の例は多いですが,磯上に関しては最良の時期に挑戦した部類に入ると思います。結果的に惨敗となったのは,実力・経験におけるルハンとの差です。
 世界戦だけに拘って惨敗を重ねて消えていく選手が多い中で,磯上は世界挑戦失敗後に日本タイトルを中心としたリングに切り替えて存在感を十分に示した稀有な例と言えます。むしろこちらの方が特筆すべき点であり,ボクシング史における磯上の存在意義と言えるかも知れません。
 ルハン,テル,村田に相次いで倒されたことで多少打たれ脆くなった感じはありますが,キャリア晩年にはパワーファイト一辺倒から細かいテクニックを披露する姿に変身を遂げています。79年が第一のピークと書きましたが,引退するまでの3年間は別の意味で第二のピークと言えるでしょう。

 私は磯上の現役当時にJR田端駅近くの商店街ですれ違ったことがあります。日焼けした精悍な表情に鋭い眼光が印象的で,すぐに磯上だと気がつきました。修行僧のような無表情から繰り出される非情な連打が懐かしいです。



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