忘れ得ぬ戦士たち

(15) 斎藤勝男(暁⇒タナカ)

切れ味鋭い右ストレート,波瀾万丈のテクニシャン

 生年月日  1943年2月22日
 出身地  山梨県巨摩郡竜王町
 プロデビュー  1961年4月28日
 ウェイト  バンタム級⇒フェザー級
 主要タイトル  日本バンタム級,東洋フェザー級
 タイプ  右ボクサー
 終身戦績  47戦29勝(8KO)7敗7分4EX
 主武器  右ストレート,左フック,左アッパー


 昭和30年代末期から40年代前半にかけて活躍したテクニシャン斎藤勝男も忘れられない選手のひとりです。数々の名勝負,ここ一番で見せた切れ味,リング外でのトラブルなど,あらゆる面で常に話題を提供し続けた男といえるでしょう。今回は,この一風変わったテクニシャンの波乱に満ちたボクサー人生を辿ることにします。

強豪ジョーンズをKO
 斎藤のデビューは61年4月,坂本朝保(ミタカ)との4回戦で判定勝ちしています。それ以降マニラ遠征でレイ・アシス(比国)に敗れるまで引き分けを挟んで22戦無敗という記録を残しています。この中には後に日本バンタム級王者となる高見達矢(東京ボーリング)から得た2勝,東洋バンタム級王者カーリー・アグイリー(比国)に勝った殊勲の試合も含まれています。
 特に青木勝利(三鷹)から9回KO勝ちで東洋王座を奪ったばかりのアグイリーは強敵でしたが,斎藤は右目が塞がる激戦の末にアウトボクシングで小差ながらもアグイリーを破りました。このとき斎藤は日本バンタム級10位。兄・斎藤英二郎(興伸)がマニラ遠征でアグイリーにKO負けしており,弟・勝男が金星と同時に兄の仇討ちを果たす形になりました。
 64年9月,日本4位につけた斎藤に強敵が立ち塞がります。東海道新幹線開通,東京オリンピック開幕を直前に控え,日本全体がエネルギーに満ちていた時代でした。相手は”殺人的強打者”と恐れられていた世界2位の黒人ロニー・ジョーンズ(米国)です。『斎藤が判定まで持ち込めれば殊勲賞』という声が多かった冒険でしたが,斎藤は見事にジョーンズをキャンバスに沈めてファンを驚かせました。斎藤は強打を恐れずに2回には攻勢に出てジョーンズをぐらつかせます。そして3回,連打からの右フックで2度倒し,見事なKO勝ちを収めました。この一戦は斎藤の”出世試合”と言ってもいいでしょう。テクニックと強打を兼備した斎藤の評価は一気に高まりました。指導していた白井義男氏は更なる精進を斎藤に求めながらも世界への手応えを感じていたはずです。

高山戦直前の失踪騒動
 64年10月,日本1位にランクされた斎藤はアル・パターソン(比国)を大差で破りました。一方的に攻めながらも倒せなかったのですが,これはパターソンのタフネスを讃える声が多かったです。
 そしてジョーンズ戦のKO勝ちによって世界バンタム級3位にランクされた斎藤にとって黄金カードが実現しました。相手は世界フライ級5位の高山勝義(木村)。64年の大晦日のことです。世界ランカー同士の対決とあって,この試合は人気を呼びました。斎藤は高山と同じサウスポーの海老原博幸(金平)とスパーリングを重ねて大一番に備えました。
 ところが直前に思わぬ大騒動が勃発しました。試合を9日後に控えた12月22日になって,『ウェイト調整がうまく行かない』という書置きを残した斎藤が失踪してしまったのです。すでにチケットが発売され,中継するTBSでもCMが流されていたので,関係者は血眼になって斎藤の行方を捜しました。興行自体の延期は不可能なので,斎藤の代役として同門の日本バンタム級王者・芳賀勝男が帰省先の仙台から急遽呼び戻され,”臨戦態勢”に入りました。
 斎藤が姿を現したのは試合が3日後に迫っていた12月28日。契約ウェイトの117ポンドに落とすためにサウナに入るなど,そこから斎藤本人,コーチの白井義男氏,田中敏朗マネジャーの涙ぐましい努力が始まりました。斎藤は謝罪はしたものの,失踪の理由については一切語らずに練習を再開しました。
 『ウェイトオーバーでグラブハンデも止む無し』と見ていた関係者が多かった中,斎藤は試合前日からの一夜で7ポンドもの過酷な減量をした末に契約ウェイトの117ポンドちょうどでリングに上がりました。斎藤の減量苦もあって,予想は圧倒的に高山有利。しかし本番では斎藤が一連の失踪騒動や減量苦がウソのような好調さを見せて高山を苦しめました。試合は激しい主導権争いが続きましたが,結果は僅差で高山の判定勝ちとなりました。『失踪騒ぎさえなければ勝てたのでは?』と思わせるほどに斎藤の善戦が光った一戦でもあります。

メデル,原田との激闘
 65年5月には”ロープ際の魔術師”と言われたホセ・メデル(メキシコ)との一戦が実現しました。世界2位の強豪メデルと世界6位・斎藤との対決とあって,日大講堂に5千人のファンが詰めかけました。試合はメデルの左ストレートが先行し,リードする展開になりました。後半に入ってペースを掴んだ斎藤は激しく攻勢を仕かけますが,一歩及ばず。判定は僅差でメデルのものとなりました。しかし,敗れたとは言え,斎藤はここでも株を上げる結果となりました。

 斎藤がメデルと戦った5日後,日本ボクシング史に残る試合が行われました。ファイティング原田(笹崎)が名古屋でエデル・ジョフレ(ブラジル)を破り,世界バンタム級の王座を奪ったのです。その原田の王座獲得第一戦の相手に抜擢されたのが世界8位の斎藤でした。65年7月のことです。斎藤は契約ウェイトの122ポンドを不服として,試合の記者発表の席上で『120ポンドでなければ試合は止める』とゴネて関係者を慌てさせましたが,結局は箱根・仙石原でキャンプを張るなど原田戦に向けて並々ならぬ意欲を見せました。
 スパーリングでジョフレをダウンさせたことがある斎藤,原田を完膚なきまでに叩きのめしたメデルに善戦している斎藤ということで,試合前から異常な盛り上がりを見せ,両選手の動静が連日スポーツ紙の紙面を埋めました。原田は斎藤以外にも多くの日本人にノンタイトル戦でチャンスを与えていますが,その辺が原田の原田たる所以でしょう。
 この試合は日本武道館に1万人を集め,ノンタイトル12回戦として行われました。東京オリンピックの柔道におけるアントン・ヘーシンクvs.神永昭夫戦(無差別級決勝)をはじめとする数々の名勝負や後に来日したビートルズのコンサートの舞台となった日本武道館ですが,実はボクシングの興行が行われたのはこの原田vs.斎藤戦が初めてです。記念すべきこの試合でも斎藤は予想以上の善戦を見せてファンを唸らせました。3回には右クロスで原田をぐらつかせるなど前半は斎藤のペース。原田は中盤から反撃に転じますが,斎藤の軽快なフットワークと切れのあるパンチに苦戦しました。しかし互角で迎えた最終12回,原田の右アッパーがアゴを捕らえ,斎藤は痛恨のダウン。結局このダウンが響き,斎藤は善戦をフイにして判定負けに退きました。

 高山,メデル,原田と1年足らずの間に相次いで強豪に善戦した斎藤の評価はさらに高くなり,原田の防衛戦の相手に名前が挙がったほどです。65年10月には試合3日前での父の死というショックを乗り越え,”燻し銀のテクニシャン”と言われた中根義雄(不二)と対戦しました。前半は中根が積極的な攻撃でリードしましたが,斎藤は中盤から見事なコンビネーションブローで挽回して引き分けに持ち込みました。そして翌66年1月,今度は世界6位のマニー・エリアス(米国)を迎えます。エリアスはジョフレと引き分けに持ち込んだこともある強豪です。この夜の斎藤は本調子ではなかったものの,ローブローで減点されながらも7回に右フックでダウンを奪って判定でエリアスを破りました。

初のタイトル獲得 〜 オーバーウェイトで王座剥奪
 実力を認められながらもタイトルには無縁だった斎藤にチャンスが訪れたのは66年4月です。仙台で7千人ものファンを集め,山上哲也(木村)が持つ日本バンタム級王座への挑戦が実現したのです。斎藤は4回に右ストレートで鮮やかなダウンを奪って優位に立ちました。変則タイプの山上に対してオーソドックスな斎藤が終始主導権を握り,8回には右フックで再びダウンを奪って見事な判定勝ちで初のタイトルに輝きました。この試合は同門の先輩王者・芳賀勝男の引退記念試合として芳賀の故郷で行われたものですが,芳賀から王座を奪った山上を破って斎藤が暁ジムにベルトを取り戻す形になりました。斎藤は先輩・芳賀の再出発に見事な花を添えたわけです。
 初めてチャンピオンになった斎藤は66年6月には故郷・甲府にタフでしぶといタイニー・パラシオ(比国)を迎えましたが,これは後手に回って意外な苦戦を強いられ,引き分けに終わりました。甲府で初めて行われたこの興行には母校・山梨学院大付属高時代の同級生が多く詰めかけましたが,故郷に錦を飾るにしては選んだ相手が悪かったと思います。パラシオはファイティング原田にも倒されなかったタフな名うてのファイターでした。
 66年10月,斎藤は米国テキサス遠征に出ています。相手は世界1位の強打者ヘスス・ピメンテル(メキシコ)。これは斎藤もさすがに歯が立たず,3度のダウンを喫して8回KO負けに退きました。

 67年3月,斎藤にとって試練の初防衛戦を迎えました。相手はファイティング原田の実弟で新進気鋭の牛若丸原田(笹崎)です。
 タイトルを奪った山上哲也戦以来1年ぶりの118ポンドでの試合でしたが,減量に苦しむ斎藤はウェイトを作ることができず,試合当日1回目の計量で119 3/4ポンド,2時間後の再計量でも119 1/2ポンドでウェイトオーバーとなりました。脱水症状が酷く,これ以上の減量は危険と判断したドクターの見解により,斎藤はタイトルを剥奪されました。ちなみに牛若丸は1回目の計量で117 1/4ポンドでリミットをクリアしています。
 試合は後楽園ホールに超満員のファンを集めて行われましたが,絶好調の牛若丸と減量でヘロヘロの斎藤では試合になるわけがありません。”前チャンピオン”としてリングに上がった斎藤は火のついたような牛若丸のラッシュに晒され,初回に早くも2度のロープダウンを喫しました。そして2回,この試合3度目のロープダウンでカウントアウトされてしまったのです。一方的に打ちまくられ,まさに不甲斐ない惨敗でした。オーバーウェイトで戦わずして王座剥奪というのは日本タイトル戦史上初の不祥事でした。
 こうして斎藤は虎の子のタイトルを手放したのです。

KOで東洋王者に 〜 ハーバート康の強打に沈んだ初防衛戦
 失意の斎藤は減量苦からジュニア・フェザー級に転向しました。67年7月には再起戦として長野県伊那市でジュニア・フェザー級1位の山本耕市(日東)とグラブを交え,左アッパーのボディブローを決めて7回KO勝ちで転向第一戦を飾りました。このときの斎藤は126ポンドでフェザー級のウェイトであり,斎藤陣営の目論見はジュニア・フェザー級を飛び越えてフェザー級にあったものと思います。
 翌68年2月には日本フェザー級1位にいた千葉信夫(ヨネクラ)との対決が実現しました。7ヶ月ぶりのリングでしたが,復活に燃える斎藤は年末から白井義男氏と厳しいトレーニングに明け暮れました。
 果たせるかな,この試合は火の出るような打ち合いで,実力者同士による一進一退の好ファイトになりました。序盤は千葉がスピーディな左右のストレートでリードしますが,2回には斎藤も負けじと右ストレートで千葉をぐらつかせます。5回,斎藤の左右フックで千葉はダウン寸前のピンチ。8回,千葉の反撃にタジタジとなった斎藤ですが,ボディブローで形勢逆転。最後は左フックで千葉をキャンバスに沈め,見事な8回KO勝ちを収めました。これぞまさに手に汗握る熱戦でした。

 68年6月,斎藤は関光徳(新和)の引退で空位となった東洋フェザー級王座決定戦に出場するチャンスを得ました。相手はかつて関の王座に挑戦したこともあるフランシスコ・バルグ(比国)です。この決定戦は関の引退記念試合として行われ,試合前には引退セレモニーが行われました。東洋フェザー級王座12度防衛という金字塔を打ち立てながら,5度の世界挑戦も実らなかった悲運の拳雄・関はテンカウントと盛大な拍手に送られてリングを降りました。
 試合は意欲が見られないバルグに対して,斎藤が4回に左フックでダウンを奪った後,連打でロープダウンを追加。最後は左右フックの連打で3度目のダウンを奪い,見事なKOで新チャンピオンに輝きました。放送席のゲストとして陣取った前王者・関と新王者・斎藤がガッチリと握手を交わし,新旧交代をファンにアピールしました。勝利者インタビューを受ける斎藤の横でグラブを外したり,タオルで汗を拭ってやる関のスポーツマンらしく温かみのある姿が印象に残っています。

 低迷から脱して東洋王座を獲得した斎藤ですが,行く手には難敵が待ち構えていました。”怪物”と恐れられたハーバート康(韓国)です。王座決定戦で新しい王者となった斎藤に対し,OBF(東洋ボクシング連盟=現OPBF)が初防衛戦で康の挑戦を受けることを義務づけたのです。康は来日して金沢和良(アベ),伊達健七郎(木村)をいずれも2回で沈め,日本のファンにも知れ渡っていた戦慄の強打者です。まだ19歳1ヶ月の新鋭でしたが,このときすでに東洋ランキングの3位につけていました。
 68年9月,斎藤は後楽園に強敵・康を迎えました。下馬評はキャリアとスピードに勝る斎藤がやや有利というものでした。初回,身長173cmの康はスタートから伸びの良い左ストレートを決めて斎藤をぐらつかせました。斎藤も右ストレート,左右フックで応戦しますが,2回開始早々に康の強打が火を噴きました。康は斎藤の実力を見切ったかのように攻勢に出ます。斎藤のパンチをカバーリングしながら不気味に前に出た康は左右フックでよろめいた斎藤のアゴにとどめの右アッパーを一閃。情け容赦ない強打を浴びて仰向けに倒れた斎藤は何とか立ち上がろうとしましたが,最後は深々とキャンバスに沈みました。斎藤のダメージはしばらく立ち上がれないほど深刻なものでした。25歳43戦目のベテラン斎藤はKO率9割を誇る19歳の康に屈し,初防衛に失敗したのです。
 私はこの試合を生観戦していましたが,自分の背筋に走った寒いものを今でもはっきりと記憶しています。斎藤自身も『何を食ったのか全然覚えていない』と述懐したほどの凄絶な倒され方でした。あまりにも衝撃的なKOシーンに,後楽園のファンは声を失いました。その傍らで,在日韓国人らしき康の応援団だけがお祭り騒ぎでした。私は翌日学校の教室内がこの試合の話題で持ち切りだったことを今でも鮮明に記憶しています。

凄絶なラストファイト
 完敗で再び虎の子のベルトを手放した斎藤の去就が気になりましたが,翌69年2月,斎藤は復活を決意して再起戦に臨みました。相手は中堅として活躍していた日本5位の池田耕二(ベア)です。この試合は激しいダウンの応酬で大荒れに荒れて凄まじい試合になりました。格は斎藤の方がはるかに上でしたが,若い池田が健闘し,前半は斎藤が守勢に回る場面が目立ちます。5回,斎藤はようやく右フックで池田からダウンを奪いますが,7回には逆に池田の反撃で斎藤が2度のダウンを喫するという大波乱。
 ここまではポイントで大きく池田がリードし,大金星直前と思われましたが,最終回にまたまた大波乱が待っていました。逆転を狙う斎藤は右ストレートと左フックを決め,土壇場で2度のダウンを奪います。血だらけで目もウツロな池田は辛うじてファイティングポーズを取って再開となりましたが,左フックで3度目のダウン。このときに最終回終了のゴングが鳴ったため,3度目のダウンがゴングの前か後かで大揉めにモメました。
 斎藤陣営はKO勝ちを主張,タイムキーパーも『3度目のダウンはゴングと同時』との見解を示し,結局は斎藤のKO勝ちとなりました。この裁定に納まらないのは池田陣営です。『3度目に倒れたのはゴング後』と主張し,猛然と抗議しました。興奮した池田ファンがリングサイドから椅子を投げ込むなど,非常に緊迫しました。
 9回までの公式採点では4〜5点差で池田がリードしていました。10回を5−2(当時は5点法)で斎藤としても,3度目のダウンがゴング後ならば池田の判定勝ちになったため,池田陣営の抗議は熾烈を極めました。ところが主審は3度目のダウンを宣告しておらず,ゴングと同時に採点の集計を始めています。つまり明らかに『3度目はゴング後』と判断していた証拠であり,この曖昧な行動も混乱に拍車をかける原因になったのです。
 大混乱のうちに10回3分ジャストKO勝ちという珍記録の誕生となったわけですが,3度目のダウンがゴングの前か後かは今振り返っても微妙なところです。むしろ私は池田のダメージから見て,10回の2度目のダウンの時点で斎藤のKO勝ちが宣告されるべき試合だったと考えています。

波瀾万丈のボクサー人生 〜 斎藤勝男の魅力とは何か
 結局,この池田との死闘をラストファイトとして,斎藤勝男は波瀾に満ち溢れたボクサー生活にピリオドを打ちました。引退の理由は良くわかりません。
 斎藤は昭和30年代末期から40年代前半のボクシング界を彩った名脇役と言っても過言ではありません。あまり話題になりませんが,中村剛(新和)と並んで原田兄弟の両方と対戦した経験を持つ数少ないボクサーのひとりです。兄の英二郎も日本ランカーとして知られ,日本ジュニアライト級の初代王者だった高田安信(極東)の王座に挑戦した経験があります。兄弟ランカーとして有名でした。
 人気も抜群で,世界挑戦の期待もかけられたほどの実力派です。切れのいい右ストレート,左フックあるいはボディへの左アッパーを武器とする右ボクサータイプで,一流の技術を持つ軽量級屈指のテクニシャンとして鳴らしました。ジョフレとのスパーリングで右ストレートでダウンさせたことは前述の通りです。好不調の波は激しかったものの,ツボにはまったときの強さには目を見張るものがありました。 
 生涯のKO勝ちの数が8KOと少ないですが,パンチがないわけではありません。むしろここ一番で見せる鮮やかなKO勝ちが非常に印象的であり,低いKO率が意外なほどにパンチには威力が感じられます。対戦者の多くが斎藤のパンチの強さを讃えるコメントを残していたことがそれを裏付けていると言えるでしょう。
 8KOうちの4KOはキャリア晩年のものです。試合内容に波があったため,全盛期はいつ頃かと問われると難しいですが,晩年には倒すコツを覚えたかのようにKOを連発しました。特に左フック,右ストレートには抜群の切れ味がありました。

 しかし,非常に人気がある反面でトラブルメーカーとしても有名でした。刑事事件を起こしたボクサーを別格とすれば,斎藤ほどお騒がせな御仁はいないと思います。プロモーターは爆弾を抱えるような思いで試合を組んでいたはずです。しかし,今となっては,エキセントリックで人騒がせで危なっかしいところが斎藤の魅力のひとつかも知れません。それでいてどこか憎めないところがあるのは実力だけでなく,人徳というものでしょうか。
 高山戦直前の失踪事件,ファイティング原田戦でのウェイト問題,牛若丸戦の失格事件,ラストファイトになった池田戦の大混乱・・・・・。トラブルメーカーという意味では藤猛(リキ)らと並んで筆頭格になるかも知れません。素質を見込んで熱心に指導していた白井義男氏もかなり苦労したと思います。
 その性格は内向的と伝えられています。当時としては珍しく明確に自己主張をするタイプで,練習計画も自分でキッチリ立ててコンディションを整えていたようです。そのため,田中敏朗マネジャーとはしばしば衝突を繰り返したと言われています。高山戦直前の失踪の真因は明かされていませんが,当時は118ポンドでも苦しいところをフライ級の高山と対戦させるために117ポンドで一方的に契約されたことが原因であると報じられました。そういう状況の中で引退するまで斎藤の指導を続けた白井義男氏,粘り強くマネジメントを続けた田中マネジャーの手腕は見事でした。
 哲学書を愛読することでも知られています。非常に個性豊かというか,試合後のインタビューでのコメントも少々変わったところがありました。若くして人生を悟ってしまったというのか,どこか達観したような冷めたものをコメントに感じ,『この人,ホントにボクサーなんだろうか』と思ってしまうこともしばしばでした。リング内外の姿のアンバランスも斎藤勝男がファンを惹きつける要因かも知れません。

 引退後は故郷の山梨県甲府市に在住していると聞いています。今どうしているでしょうか。健在ならば還暦は越えているはずです。とても懐かしいです。軽快なフットワークに乗せた切れ味十分のコンビネーションブローが忘れられません。



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