忘れ得ぬ戦士たち

(14) 金沢和良(アベ)

オリバレスとの死闘,歴史に名を残す強打の技巧派

 生年月日  1946年11月8日
 出身地  北海道札幌市
 プロデビュー  1965年7月18日
 ウェイト  バンタム級
 主要タイトル  東洋バンタム級
 タイプ  右ボクサーファイター
 終身戦績  41戦30勝(17KO)10敗1分
 主武器  右ストレート

 金沢和良をリアルタイムでは見たことがない方でも,その名前を聞いたことがないというファンは少ないでしょう。それほど強烈な印象を与え,後世に名前を残したのが金沢です。晩年に一度だけ東洋のベルトを腰に巻いたものの,一度も防衛戦を行っていませんし,特に傑出した記録を残したわけでもありません。それなのに引退後30年以上経過した現在でもこれほどまでにファンから愛され,語り継がれているのは非常に稀有な存在だと思います。今回はその足跡を辿ってみましょう。

 金沢は戦後間もない札幌に生まれました。札幌東工業高時代にアマチュアでボクシングを始めたのがボクシング人生のスタートです。63年には全日本社会人フライ級チャンピオンに輝いています。
 上京した金沢はボクシング界随一の厳しい指導で知られた阿部幸四郎氏が主宰するアベジムに入門し,その指導を受けてプロ入りしました。65年7月,市川清(豊島)を2回KOで破り,幸先のいいスタートを切っています。6回戦時代の66年7月には後に日本ランカーになった池田耕二(ベア)に判定負けを喫していますが,13戦目までは11勝(6KO)2敗という好成績を残し,若手のホープとして期待を集めました。
 そして14戦目の67年6月,金沢はハーバート康(韓国)を迎え撃ちました。沼田義明(極東)がフラッシュ・エロルデ(比国)から世界ジュニア・ライト級王座を奪った蔵前国技館でのアンダーカードでした。康は初回こそ両手で顔面をカバーしていましたが,2回に一気に攻勢に出ます。金沢は康の強打をかわせず,左フックで2度倒された後,最後は右フックでトドメを刺されました。金沢はメインイベンターへの昇格を賭けた試金石とも言える試合を落としたのです。一方,後に戦慄の強打で日本のトップクラスを総ナメにすることになる康はまだ17歳11ヶ月という若さ。日本のファンに初めてその名を痛烈にアピールした試合でした。
 67年10月,”いぶし銀のテクニシャン”と言われた世界ランカーの中根義雄(不二)には判定負けを喫しましたが,これは代役で出場したものであり,不運な試合でした。

 私は翌68年から69年にかけてが金沢の全盛時代だと思います。
 68年2月には世界挑戦の経験者・高山勝義(木村)をうまさで破りました。フライ級からバンタム級への転向第一戦だった高山は冷静さを失ったベテランらしからぬボクシングで金沢に敗れ去ったのです。
 4月にはうるさいベビー・ロロナ(比国)を切れのいい右ストレートで痛めつけた後に左フックのワンパンチで9回KOに沈めます。そして,5月には野性味あふれるロミー・ゲラス(比国)を判定で破りました。
 7月には初めて世界バンタム級10位としてリングに上がり,中部のテクニシャン宇野正高(東海)と対戦します。この試合は見事でした。サウスポーの宇野に対して,左ジャブからアゴに左アッパーを決めるなどのテクニックを見せ,早いフットワークと正確なパンチで宇野を圧倒し,3回にロープダウンを奪った後,7回に鮮やかな連打で宇野を仕留めました。まさに世界ランカーの貫禄を見せた試合でした。いつもは厳しい阿部会長が珍しく興奮気味に『よくやった』と金沢を手放しで褒めていたのが印象的でした。
 その8日前にライオネル・ローズ(豪州)の世界バンタム級王座に挑戦した桜井孝雄(三迫)が消極戦法で惜敗したばかりであり,新星・金沢に対するファンの期待は一気に膨らみました。

 翌69年1月,8連勝の勢いに乗った金沢は勇躍メキシコに乗り込みます。金沢にとっては初の海外遠征でした。しかし,相手は怪物としてセンセーションを巻き起こしていた世界バンタム級1位のルーベン・オリバレス(メキシコ)です。さすがの金沢も波に乗っていたオリバレスには歯が立たず,強打を浴びて仰向けに倒され,わずか2回でKO負けに退きました。オリバレスはこの年の8月にローズを倒して一気に世界の頂点に駆け上がったのです。
 阿部会長ともども世界の広さと壁の厚さをいやというほど見せつけられて帰国した金沢でしたが,休む間もなく,後楽園に世界バンタム4位の強豪ヘスス・ピメンテル(メキシコ)を迎えます。69年3月のことです。
 オリバレス戦の完敗直後だけに,厳し過ぎるマッチメークと見られましたが,金沢は見事なアウトボクシングでピメンテルの強打を完封しました。速いフットワークに乗せた金沢のスピーディなワンツーや左右フックがビシビシ決まり,ピメンテルは4回に右目上,5回には左目上をカットします。ピメンテルは世界ランカーのプライドだけは捨てませんでしたが,9回ついに遠山主審がストップしました。ここでもいつもは厳しい阿部会長が喜びを隠さずに金沢を称えていた姿が印象的でした。
 リングサイドにはフェザー級に転向して3階級制覇を狙っていたファイティング原田が笹崎会長とともに観戦していました。かつて世界バンタム級王座の5度目の防衛戦でピメンテルの挑戦を受ける寸前に『条件が気に入らない』という理由でドタキャンされた原田は,不甲斐ないピメンテルに対して,『何もないひどいボクサーだ』と言い残して席を立ちました。
 勢いに乗る金沢は間を置かず,5月にノンタイトル戦で東洋バンタム級王者・李元錫(韓国)を迎えました。この試合で,李は契約ウェイトをオーバーしてグラブハンデを負いました。金沢は序盤こそ李の荒々しいボクシングに戸惑ったものの,中盤以降はスピードの差を見せつけて大差で李を破りました。
 ちょうどこの頃,アベジムの看板選手で日本バンタム級王者として活躍した高木永伍が引退し,ジムの期待は否応なく金沢に集まるようになっていました。それだけに阿部会長が金沢に注ぐ情熱も増して行ったのです。
 69年8月,金沢が迎えたのはジョー・メデル(メキシコ)です。数々の名勝負を繰り広げたメデルもすでに33歳。後楽園は満員のファンで埋まりましたが,メデルに往年の面影はなく,22歳の金沢に屈しました。しかし,パンチを出さなくても滲み出るカウンターの恐怖の前に金沢は消極的になり,勝ったものの褒められる内容ではありませんでした。

 70年4月,ロスに遠征した金沢は無敗の強打者ロドルフォ・マルチネス(メキシコ)と対戦して4回TKO負けに退きます。マルチネスは後年,WBCバンタム級王者となり,沼田久美(新日本木村)の挑戦を受けるために来日したことがあります。マルチネス戦直後の5月にホノルルに渡った金沢は,ロミー・ゲラス(比国)との再戦に勝ちました。
 その年の10月,好敵手だった牛若丸原田(笹崎)との一戦が実現しました。2回にはワンツーからの左フックで牛若丸をダウンさせた金沢はスピーディなコンビネーションブローを披露しますが,両目の上をカットして激しく出血します。流血の凄惨な試合となりましたが,結局8回TKO負けとなり,金沢は痛い星を落とします。勝ったはずの牛若丸が申し訳なさそうに小さくなっていたのが印象的でした。
 翌71年2月,金沢はバンコクに遠征し,ベルクレック・チャルバンチャイ(タイ)を4回KOに屠りました。ベルクレックは大場政夫(帝拳)に世界フライ級王座を追われて以来の再起戦でした。

 なぜかベルトには縁がなかった金沢ですが,71年7月,孫永煥(韓国)と東洋バンタム級王座を争う決定戦のチャンスが訪れました。プロ入り7年目,実に39戦目のことですから,金沢ほどの実力者にしては意外なくらいです。
 この試合は前王者・桜井孝雄(三迫)の引退で空位となった王座を争ったもので,試合前には桜井の引退式が行われました。東京五輪の金メダリストからプロ入りし,世界タイトルにこそ手が届かなかったものの,華麗なテクニックで一世を風靡した桜井はテンカウントに送られ,ファンや関係者の拍手を浴びました。これから決定戦に臨む金沢の師匠である阿部会長に高々と手を挙げられて静かにリングを降りた桜井の姿が印象的でした。
 金沢がやや優位に進んだ決定戦は,5回,サウスポーの孫が劣勢を挽回しようと左右フックで突進します。しかし,接近戦になった瞬間,金沢の右アッパーがカウンターになり,腰から落ちた孫は仰向けにダウン。金沢は鮮やかなワンパンチKOで初めてベルトを腰に巻きました。海外で揉まれた金沢の精神面での成長が高く評価された一戦でもあります。クールな金沢が珍しく全身で喜びを表現した姿が記憶に残っています。

 孫戦の前あたりから,マッチメーカーのリッチ井上氏が金沢の世界挑戦実現に向けて動いていました。井上氏は王者ルーベン・オリバレスのエルナンデス・マネジャーとの交渉のためにメキシコに渡りました。その強打のために相手がいなくて困っていると見た井上氏は,基本的な条件さえ呑めばオリバレスは必ず来日すると読み,日本での挑戦に向けて周到な交渉を展開しました。
 71年10月,金沢がついに世界の舞台に立つ日が来ました。名古屋でオリバレスの持つ世界バンタム級王座に挑戦するチャンスを得たのです。場所は愛知県体育館。かつてファイティング原田がエデル・ジョフレ(ブラジル)からタイトルを奪った縁起のいい会場です。金沢にとっては2年前にわずか2回で倒されて以来の再戦でした。
 65勝中61KOというオリバレスにはエルナンデス氏,金沢には阿部会長が付き添います。初めて日本のリングに上がったオリバレスの上半身は逆三角形で足だけが非常に細く見えました。金沢はスピードを生かしたボクシングで好調な滑り出しを見せ,4回には左フックから右ショートストレートをヒットして減量苦のオリバレスをぐらつかせます。
 オリバレスが本領を発揮したのは中盤からです。スピードこそないものの,執拗なボディブローで金沢に迫ります。終盤は壮絶な打ち合いになりました。13回,消耗が激しい金沢ですが,オリバレスの一瞬の隙を突き,体ごと叩きつけるような怒涛のラッシュでオリバレスをダウン寸前に追い込みました。
 しかし,超人的な闘志を見せる金沢も14回に捕まります。13回のラッシュで力を使い果たした金沢はオリバレスの執拗な連打の前に3度ダウンし,精根尽きたように名古屋のリングに沈みました。
 やっとの思いでベルトを守ったオリバレスの顔も傷だらけで,壮絶な戦いを物語っていました。
 結局,この試合は文句なく71年の年間最高試合に選ばれました。敗れはしましたが,13回の怒涛のラッシュといい,14回に2度目のダウンを喫したのにも関わらず,なおも何か絶叫しながら怪物オリバレスに立ち向かっていった姿に全国のファンから賞賛が浴びせられたのです。

 予想以上の健闘を見せた金沢に対してはオリバレスとの3度目の対決を望む声もありましたが,それは実現しませんでした。翌72年2月,メキシコに遠征した金沢はロメオ・アナヤ(メキシコ)に5回KOで敗れ,ついにリングを去りました。アナヤは翌年エンリケ・ピンダー(パナマ)を破って世界バンタム級王者に輝いた強打者です。

 引退後には一時キックボクシングに転向しましたが,これは大成しませんでした。その後は夫人の実家である東京の龍厳寺の住職になって話題を呼びました。また青山ジムで後進の指導に当たったこともあります。
 金沢は色白の右ボクサーファイターで,速いフットワークに乗せた正確で切れのいいパンチが売り物でした。オリバレスとの再戦での死闘があまりにも有名ですが,あの試合は本来の金沢の実像とは少々違います。パンチはありましたが,どちらかと言うとうまさが光った技巧派です。
 宇野正高戦のように鮮やかなコンビネーションブローを見せたかと思うと,東洋タイトルを獲得した孫戦のように鮮烈なカウンターでワンパンチKOをやって見せました。また,ピメンテル戦のように華麗なフットワークで見事なアウトボクシングを披露したかと思うと,オリバレスとの再戦のように火を噴くような壮絶な打ち合いもやりました。言って見れば,素人受けも玄人受けもした稀有な才能という感じがします。
 その一方で,妥協を許さぬ厳しい指導で知られる阿部会長との確執が一部のマスコミで報じられたこともあります。しかし,これは真偽のほどはわかりません。私はむしろ金沢が阿部会長の熱心な指導と厳しいマッチメイクに耐えたからこそ,素質を開花させてあそこまで大成できたのだと考えています。
 それを物語るかのように,今の選手では考えられないほど対戦相手には世界的な強豪が多く,錚々たる顔ぶれが揃っています。ロス,メキシコ,ホノルル,バンコクなど,どんどん海外に遠征して,敵地のリングに上がって揉まれるなど,豪華絢爛なキャリアを積みました。金沢もまた場所と相手を選ばぬ勝負師のひとりでした。その姿こそが今でも根強い支持を受ける理由だと思います。
 実力者でありながらタイトルには縁が薄く,キャリアの晩年に東洋王座決定戦で勝ち名乗りを受けて一度だけベルトを腰に巻いただけです。防衛戦をやらないままにオリバレス戦とアナヤ戦を経て引退しましたから,試合でリングアナウンサーから”チャンピオン”とコールされて登場したことは生涯に一度もありません。そういう意味では,”限りなく無冠の帝王に近いチャンピオン”だったと思います。結果として世界のベルトには手が届きませんでしたが,これほどファンに愛されて,後々まで記憶に残る選手も珍しいでしょう。
 杉浦滋男アナウンサーの名調子と海老原博幸氏の辛口の解説に乗ったオリバレス戦の死闘は今でも語り草になっており,これからも語り継がれるでしょう。



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