忘れ得ぬ戦士たち

(13) 千葉信夫(ヨネクラ)

切れ味抜群,冴え渡るアウトボクシング

 生年月日  1944年2月5日
 出身地  北海道紋別郡興部町
 プロデビュー  1963年7月8日
 ウェイト  フェザー級
 主要タイトル  日本フェザー級,東洋フェザー級
 タイプ  右ボクサー
 終身戦績  48戦36勝(12KO)9敗3分
 主武器  左ジャブ,フック,右ストレート


 昭和40年代前半から中盤にかけて活躍したスピード豊かなテクニシャン千葉信夫を紹介しましょう。
 ボクサーを志した動機が奮っています。北海道の中学校を卒業し,札幌の寿司屋に就職した千葉は,些細なことから仲間とケンカになります。殴られた千葉は怒るどころか,『うまい殴り方だ』と感心したそうです。後で相手が元ボクサーだったと聞いた千葉は自分もボクサーになろうと,寿司屋を辞めて上京し,オープンしたばかりのヨネクラジムに入門しました。当時,同姓同名の千葉信夫という人気コメディアンがいましたが,千葉はよく間違われたそうです。
 後年,千葉は『あのとき殴られていなかったら,あのまま寿司を握っていましたよ』と笑いながら自分の出発点を述懐しています。人生は不思議なもので,どこにターニングポイントが隠れているかわかりません。これが後にシャープなテクニシャンとしてファンを唸らせた千葉信夫のスタートです。

 63年7月,木村繁(中村山梨)との4回戦で3回KO負けという苦いデビューになりました。しかし,その後は順調に勝ち進み,昭和39年度(64年)の東日本フェザー級新人王を獲得しました。翌65年1月には中山和利(堀内)に判定勝ちして全日本新人王に輝きます。
 66年4月にはベテランの元日本王者・益子勇治(東拳)を6回終了KOで破りました。千葉は2度目の10回戦とは思えないうまいボクシングで晩年の益子を圧倒しました。
 同じ年の8月,後の日本ジュニア・ライト級王者・奄島勇児(鈴木)に判定勝ちした千葉は,デビュー戦の黒星以降,2引き分けを挟む20連勝という快進撃をマークします。そして奄島戦から2ヶ月後の66年10月,小林弘(中村)の日本フェザー級王座に挑戦するチャンスを掴みました。しかし,後に世界王者になる小林には歯が立たず,2回と9回にショートの右フックをカウンターされ,1度ずつのダウンを喫し,大差の判定で完敗しました。5度目の防衛を果たした小林は,翌年,沼田義明(極東)を倒し,一気に世界の頂点に駆け上がるのです。
 67年8月,リック・ペナロサ(比国)には8回TKOで敗れました。そして,翌68年2月には,ライバルの斎藤勝男(タナカ)と対戦しました。試合はテクニシャン同士のシーソーゲームになりました。千葉は斎藤の強打によく耐えましたが,8回に再び斎藤の強打が爆発します。弱点のボディにパンチを集められて動きが鈍った千葉は左フックをアゴに受け,ついにダウン。そのままKO負けとなりました。
 斎藤には苦汁を飲まされた千葉ですが,世界王者になった小林弘(中村)が返上して空位となった日本フェザー級王座を争う決定戦に出場するチャンスが巡って来ました。斎藤戦からわずか1ヶ月後の68年3月のことです。相手は二代目・青木勝利(三鷹)です。この二代目・青木勝利(本名・佐藤稔)はよく混同されますが,エデル・ジョフレ(ブラジル)に挑戦したあの青木勝利とは別人です。三鷹ジムの川野久利会長が,引退した先代・青木にあやかろうと命名したリングネームでした。先代・青木はハードパンチャーでしたが,二代目・青木は同じサウスポーながら,パンチ力に欠けました。
 試合前のリング上では,JBCの菊地事務局長が世界王者になった小林弘を引き合いに出し,『世界的な選手を数多く出している日本フェザー級・・・好試合を期待する』という異例の激励を行いました。
 斎藤戦でのKO負けのショックが残る千葉に対し,9連勝と波に乗る青木が前半は押し気味に試合を進めます。しかし,地力で優る千葉が5回から反撃に転じ,7回に動きの鈍った青木を捉え,最後は左フックでKOしました。千葉は2度目の挑戦で見事に王座を獲得しました。新王者・千葉に対して宿敵・斎藤から挑戦状が出されましたが,これは斎藤が東洋王座に挑戦することが決まったため,実現しませんでした。
 その年の4月には大阪でのノンタイトル戦で森敏春(神戸)を右アッパーで倒し,さらに連打を浴びせて4回KOで一蹴します。そして,9月,千葉はビッグチャンスを掴みました。3階級制覇を目指して世界フェザー4位に位置していたファイティング原田(笹崎)の胸を借りることになったのです。場所は栃木県佐野市民会館でした。千葉は前半をリードする善戦を見せますが,さすがに原田は強く,7回,ボディに集中打を浴びた千葉は苦悶の表情でKO負けに退きました。
 原田には敗れた千葉ですが,69年1月,相馬芳彦(三迫)を鮮やかな連打で4回KOに破り,初防衛に成功しました。その年7月,初の海外遠征でロスのリングに立ちますが,強豪ドワイト・ホーキンス(米国)の左フックを受け,呆気なく初回KO負けを喫します。前年の3月には後輩の柴田国明(ヨネクラ)がホーキンスにKO負けしており,ヨネクラ勢は返り討ちにされました。
 この頃,油の乗り切った千葉は国内では無敵でした。69年11月,2度目の防衛戦ではパンチのある安藤嘉男(パルン)を問題とせず,3回KOで一蹴します。12月にはソウルに飛び,強豪・金R(韓国)を7回TKOで降しました。そのわずか23日後には代役出場でビル・ツムラク(比国)と対戦しましたが,これはコンディション調整が間に合わず,不運な3回KOで敗れました。
 そして,翌70年3月,千葉の選手生活で最大のハイライトを迎えます。ハーバート康(韓国)の東洋フェザー級王座への挑戦が決まったのです。康はKO率9割という戦慄のハードパンチャーで,千葉がKOされている斎藤を痛烈な2回KOで降して王座を奪っています。初防衛戦では千葉の後輩・柴田をも6回KOで沈めている”怪物”です。
 圧倒的不利の予想の中,千葉は目の覚めるような鮮やかなヒットアンドアウェイ戦法を披露しました。康の強打は空を切り,千葉のワンツー,左フックが冴え渡ります。8回にはダウンも奪い,千葉は大差の判定勝ちで王座を奪いました。”日本人キラー”と言われた康は日本のリングでは初の黒星でした。康の強打に何度も煮え湯を飲まされ続けたファンは溜飲を下げ,歓喜が後楽園ホールに渦巻きました。千葉はこの勝利でテクニシャンとしての評価を不動のものにしたのです。
 東洋王座は70年9月,アナンタコーン・ルクムアングラス(タイ)を右ストレートで2回KOに破り,初防衛に成功しました。千葉は当時のWBA世界フェザー級王者・西城正三(協栄)との対戦を熱望しますが,これはテレビ局の系列の関係もあり,実現はしませんでした。
 71年2月にはカラカスに遠征し,アルフレッド・マルカノ(ベネズエラ)とグラブを交えますが,さすがにマルカノは強く,千葉は6回KO負けに退きます。マルカノはこの年の7月に来日し,小林弘(中村)を10回KOで破り,WBA世界ジュニア・ライト級王座を奪っています。
 2ヶ月後の71年4月にはソウルに飛び,金R(韓国)と対戦しました。一度は勝っている金との再戦でしたが,このときは2回KO負けを喫し,東洋王座から陥落しました。これがラストファイトになりましたが,余力を残したままの惜しまれる引退だったと思います。

 千葉はオーソドックスなボクサータイプで,フットワークに乗せたシャープな左ジャブ,右ストレート,左フックが武器です。鮮やかなコンビネーションブローを得意としたテクニシャンとして鳴らしました。色白でスリムな体のどこからパワーが出るのか不思議に思えるほどパンチには切れがありました。ただ,打たれて脆いところがあり,アゴにもボディにもウィークポイントを抱え,鮮やかなKO勝ちを演じたかと思うと,しばしば呆気なくKOされることもありました。9敗のうち8敗がKOによるものという記録がそれを物語っています。
 全盛期は日本王座を獲得してKO防衛を重ねていた頃から,ハーバート康を破って東洋王座を奪ったあたりまででしょう。68年から70年頃の千葉はすっかり油が乗り,スピード,パンチ,テクニックともに群を抜いて,安定王者の風格たっぷりでした。
 この頃のヨネクラジムには千葉信夫の他に,柴田国明,東海林博,清水精,鈴木石松(後のガッツ石松)などの中量級のトップボクサーが犇いていた時代です。後年多くの世界王者を輩出したヨネクラジムですが,これらの実力者がジム内で鎬を削っていた昭和40年代前半から中盤にかけては第一期黄金時代だったと言えます。
 米倉会長が若く熱意があったこともありますが,ジムには活気が溢れ,これらのトップボクサー同士が連日激しいスパーリングを繰り広げたと言われています。こういう環境で選手が成長しないわけがありません。
 冒頭に紹介したような希薄な(?)動機でボクシングを始め,『チバちゃん』の愛称で親しまれていた千葉は,日本ボクシング界をリードしたヨネクラジムの入門第一号でした。肝心な局面でのKO負けが多い千葉に対する米倉会長の評価は『もう少し根性があれば・・・』というものでした。しかし,そんな千葉もライバルが切磋琢磨する環境の中で揉まれて一流のテクニシャンに成長して行ったのです。日本王座を防衛している頃には,『プロだから,いい試合をしなくちゃ干されてしまう』と発言するまでに自覚が出ていました。
 私には余力を残してリングを去ったように見えましたが,本人はどうだったんでしょうか。引退後の消息は伝わって来ませんが,あのシャープなボクシングが懐かしいです。



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