忘れ得ぬ戦士たち

(12) ベン・ビラフロア(比国)

野性味あふれるハワイの怪童

 生年月日  1952年11月10日
 出身地  フィリピン ネグロス島
 プロデビュー  1968年1月30日
 ウェイト  ジュニア・ライト級
 主要タイトル  WBA世界ジュニア・ライト級
 タイプ  左ファイター
 終身戦績  45戦36勝(20KO)4敗5分
 主武器  右フック,左ストレート


 ベン・ビラフロアはフィリピンで生まれ,その後移り住んだホノルルをホームリングとして活躍しました。同じサウスポーの大先輩フラッシュ・エロルデと並び,フィリピンを代表する偉大なボクサーのひとりです。
 68年1月,マニラでロッド・サリオ(比国)に4回判定勝ちしたのがデビュー戦とされています。初期の頃は母国フィリピンでリングに上がっていました。日本に関係が深い対戦者には,アーニー・クルス(比国)に10回判定勝ち,ドン・ジョンソン(米国)に7回KO勝ち,ベビー・ロロナ(比国)に10回判定勝ちという記録が残っています。クルスは清水精(ヨネクラ)やルーベン・オリバレス(メキシコ)と対戦した強打者です。ジョンソンは来日して,高山将孝(ピストン堀口)や石山六郎(極東)とグラブを交えた黒人のベテランボクサーでした。また,ロロナは世界ランキングにも名を連ねたことがある強豪で,来日して高山勝義(木村)や金沢和良(アベ)と戦いました。
 ロロナ戦後,ビラフロアはハワイに渡り,ホノルルをホームリングにしました。ワイキキのカラカウアジムでトレーニングを積み,ホノルルを主戦場としたのです。ボクシングが賭けの対象になるハワイで,ビラフロアの強打と好戦的なスタイルは人気を呼び,日系人のローレンス一ノ瀬氏のマネジメントによりKOの山を築いて行きます。71年9月にはアマの元全日本王者でメキシコ五輪代表だったタッド岡本(リキ金谷)と対戦し,わずか1ラウンドでKO勝ちしています。
 日本のファンに初めてビラフロアの名前が轟いたのはこの頃だったと思います。『ボクシングマガジン』の前身である『プロレス&ボクシング』に,ハワイに出現した”怪童”ということで,ビラフロアが紹介されました。お河童にした長髪を振り乱してトレーニングするビラフロアの写真に私はなぜか惹かれた記憶があります。記事には,『日本のファンもビラフロアの名前を覚えておいた方がよさそう』というコメントが添えられていました。このコメントがどれだけ重要な意味を持つのか,日本のファンが認識するのに長い時間はかかりませんでした。
 71年11月にはラウル・クルス(メキシコ)を8回KOした試合を皮切りに,日本でも馴染みの選手を立て続けにKOします。レイ・ベガ(メキシコ)を7回KO,フランキー・クロフォード(米国)を初回KO,ホセ・ルイス・ロペス(メキシコ)を2回KOという快進撃で一気に世界を狙う位置にまでのし上がったのです。クルスは柴田国明(ヨネクラ)と対戦,またベガとクロフォードはいずれも西城正三(協栄)と対戦しました。ロペスは協栄ジムと契約していたかつての”怪物”ハーバート康(韓国)を東京でサンドバッグのように打ちまくって8回KOしたテクニシャンでした。
 十分な実績を積んだビラフロアに,ローレンス一ノ瀬氏が応えます。72年4月,ホノルルでアルフレッド・マルカノ(ベネズエラ)のWBA世界ジュニア・ライト級王座に挑戦するチャンスが巡って来たのです。ビラフロアは若さと強打でベテランのマルカノを圧倒し,大差の判定勝ち。ビラフロアは初挑戦で見事に王座を手にしました。19歳5ヶ月という若さでした。マルカノは前年8月に青森で小林弘(中村)から奪った王座の2度目の防衛に失敗しました。
 72年9月の初防衛戦では日本にも馴染みのビクター・エチェガレー(アルゼンチン)と対戦しました。エチェガレーは長身のカウンターパンチャーで,ビラフロアが苦手とするタイプです。この試合は苦戦の末,ドローになり,ビラフロアは辛うじて王座を守っています。

 73年3月の2度目の防衛戦で,ビラフロアはホノルルに柴田国明(ヨネクラ)を迎えました。柴田は前年にWBC世界フェザー級王座を失い,ジュニア・ライト級に転向したものです。
 ビラフロアにはローレンス一ノ瀬マネジャー,柴田には米倉会長,松本トレーナーに加え,ビラフロアを知り尽くしているスタンレー伊藤氏が参謀に付きます。会場となったホノルルインターナショナルセンターは,日の丸の小旗を振る現地の日系人や日本からの応援団,それに対抗する現地のフィリピン人応援団の応援合戦で試合前からヒートアップしました。
 実はこの試合の直前の1月25日,あのWBA世界フライ級王者・大場政夫(帝拳)が首都高速で愛車コルベットスティングレイを運転中に衝撃的な死を遂げています。失意の日本ボクシング界にとって,言わば大場の弔い合戦だったわけです。試合前のリング上では,WBAのボビー・リー会長が大場の遺影を抱き,追悼のテンゴングが打ち鳴らされました。
 ダド・マリノ(米国)に勝って,日本人初の世界王者となった白井義男氏が現地からの放送の解説者を務めました。それを知ったマリノ氏がわざわざ『ヨシオに会いたい』とロスから駆けつけ,試合前のリング上で20年ぶりに両雄がガッチリ握手をかわすという心温まる感動的な場面も見られました。また,ハンマーパンチで一世を風靡した藤猛氏もブルーのアロハに身を包んでリングに上がり,久々に元気な姿を見せました。
 試合は左のビラフロアに右の柴田という対決。実力者同士のハイレベルで緊張感溢れる15ラウンズになりました。ビラフロアはムチのような右ジャブ,左ストレートで何度も柴田を追い詰めますが,”サウスポーキラー”として定評がある柴田は最後までウィービングを忘れず,左フック,右ストレートで応戦。結局,ビラフロアは最後まで冷静さを保った柴田に少差の判定で屈し,2度目の防衛に失敗しました。
 しかし,ビラフロアもタダ者ではありません。ホノルルで岩田健二(金子),川崎明洋(水戸)を連続KOし,復活のチャンスを狙います。そして,陥落から7ヶ月後の73年10月,場所も同じホノルルインターナショナルセンターで,柴田と立場を入れ替えてのリターンマッチが実現しました。前回は15回をフルに戦った両雄ですが,今度は呆気なく勝負がつきました。雪辱に燃えるビラフロアは開始ゴングと同時に猛然と攻勢をかけます。負けじと打ち返す柴田の左より一瞬早くビラフロアの左ショートフックが決まり,柴田は音を立てて,仰向けにダウン。一度は立ち上がりかけますが,下半身が別人のように言うことを聞かず,そのままカウントアウトとなりました。ビラフロアは初回わずか116秒,見事なKOで王座を奪回します。
 この頃,ビラフロアには,まだハワイ大学の女子学生だった婚約者がおり,そのことも発奮材料になったものと思います。減量に苦しんだ育ち盛りのビラフロアに鬼のような節制を課した一ノ瀬マネジャー,エミリオ・パスカル・トレーナーをはじめ,現地のフィリピン人応援団の熱狂ぶりが印象的でした。
 翌74年3月,ビラフロアは初防衛戦でアポロ嘉男(親和)の挑戦を受けるため,初めて日本の土を踏みます。アポロは往年の名サウスポー関光徳氏の指導を受けましたが,やはりビラフロアの敵ではなく,逃げ腰のボクシングに終始しました。寒い富山のリング上,長髪を振り乱して縦横無尽に攻勢をかけ続けるビラフロアに,アポロは15回をフルに戦うのが精一杯でした。大差の判定と見られましたが,3人の日本人審判員の採点結果は三者三様のドロー。リング上には『日本のジャッジは盲目なのか』と激怒する一ノ瀬氏の姿がありました。現在のようにできるだけ振り分ける方式ではない当時の私の採点でさえ,74−71でビラフロアの明白な勝利でした。
 初防衛に成功したビラフロアは,その年の7月,母国に凱旋しました。このときはマニラで丸木孝雄(常滑)を7回KOで一蹴し,故郷に錦を飾っています。この丸木は引退後に,名古屋で天熊丸木ジムの会長になった人です。
 そして74年8月,ホノルルでの2度目の防衛戦で,後の世界王者・上原康恒(協栄)の挑戦を受けます。上原は前年11月にWBC王者リカルド・アルレドンド(メキシコ)にノンタイトルで快勝し,”沖縄の星”と言われた新鋭でした。しかし,初挑戦で硬くなった上原をビラフロアの強打が容赦なく襲います。下痢でコンディションを崩し,スタミナ面の不安を抱えるビラフロアは当然ながら,短期決戦に出ました。絶好調の上原はこれに乗ってしまい,初回,ハンマーを振り降ろすような左強打でたまらずダウン。2回に入ってもビラフロアは攻撃の手を緩めず,左右の強打で2度のダウンを追加します。ロープを枕にした上原は立ち上がれず,ビラフロアは目論みどおりの前半勝負で2度目の防衛に成功しました。初回に上原得意の右ストレートがヒットしましたが,打たせて相手を”その気”にさせ,得意の打ち合いに引きずり込むのはビラフロアの得意中の得意。プロ転向後12戦目とキャリアが浅かった上原はまんまとその術中にはまり,ホノルルのリングに沈んだのです。
 75年3月,金賢治(韓国)を判定で破り,3度目の防衛を果たします。そして,翌76年1月,4度目の防衛戦で柏葉守人(野口)の挑戦を受けるため,後楽園ホールのリングに立ちました。”和製クレイ”と言われ,ビッグマウスで知られた柏葉ですが,実力の差はどうにも埋めようがありません。2回,右フックからの左ストレートで柏葉は吹っ飛ぶようにダウン。ビラフロアは続く3回,クリンチからの離れ際に目のさめるような左ショートアッパーで2度目のダウンを奪います。柏葉は驚異的な粘りを見せますが,それ以降も試合は一方的になりました。13回,左の3段打ちで柏葉がのけぞったところでついにパディラ主審がストップしました。
 あまりの実力差に会場内は声を失い,静まり返りました。ビラフロアは減量苦に加え,目の故障や一ノ瀬マネジャーとの不仲説も囁かれましたが,十分過ぎるほどの貫禄を見せました。
 3ヶ月後の76年4月には技巧派サムエル・セラノ(プエルトリコ)と引き分け,5度目の防衛を果たしましたが,10月に6度目の防衛を狙って再挑戦を受け,判定負けでセラノに王座を譲っています。結局,これがラストファイトになりました。

 ビラフロアの魅力は何と言っても,エネルギッシュで好戦的なファイトスタイルでしょう。浅黒い肌で,『シュッ,シュッ』と音を発しながら,長髪を振り乱して攻勢をかけて行く姿には,その風貌と相俟って強烈な野生の臭いが充満していました。前進力に乗せて放つ左ストレートには抜群の破壊力があります。中間距離には絶大な強みがありましたが,晩年には接近戦でのショートブローや右フックの2段打ちなどの細かいテクニックも見せています。
 初の戴冠以降,終始一貫してジュニア・ライト級で活躍しましたが,晩年はかなり減量に苦しんでいます。また,打たせて打つ激しい試合が多かったため,眼疾にも悩まされました。戴冠も早かったですが,ラストファイトの時点では,まだ23歳11ヶ月という若さでした。そういう意味では,まさに”怪童”と呼ばれるにふさわしい早熟の天才だったと言えます。日本人キラーとしても有名で,9戦7勝(7KO)1敗1分という抜群の記録を残しています。
 ビラフロアは足を使ううまい相手にはしばしば苦戦しています。その反面,真っ向勝負に出る相手には滅法強く,得意の打ち合いに持ち込んだときの強さは抜群でした。
 フィリピンのボクシング界は,フラッシュ・エロルデ,アンディ・ガニガン,ジェリー・ペニャロサ,マルコム・ツニャカオ,マニー・パッキャオなどをはじめとする攻撃力に優れたサウスポーを多く輩出していますが,ビラフロアはその中でも筆頭格と言えます。
 引退後もホノルルで暮らしていると聞いています。あの野性味あふれるエネルギッシュなファイトが忘れられません。



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