忘れ得ぬ戦士たち

(11) 清水 精(ヨネクラ)

手抜きを知らない元祖・逆転男

 生年月日  1947・08・27
 出身地  山梨県甲府市
 プロデビュー  1964・12・15
 ウェイト  ジュニア・フェザー級
 主要タイトル  日本ジュニア・フェザー級
 タイプ  右ファイター
 終身戦績  43戦26勝(18KO)16敗1分
 主武器  右フック,アッパー


 ボクシングの醍醐味には様々な要素がありますが,中でもスリリングな逆転KOには説明無用の魅力があります。昔からボクシング史を飾る数々の逆転KOがありますが,ここで紹介する清水精(=シミズ・クワシ)こそ,まさに筋書きのない逆転KOを演じるために生まれたようなファイターだったと言っても過言ではありません。
 清水は東京オリンピックが閉幕した直後の64年12月にデビューしています。初戦は山口毅(ベアー)との4回戦に判定負けというホロ苦いデビューとなりました。下積みが長く,4回戦を16戦しています。4回戦時代には西城正三(協栄)とも戦った,後の世界ランカー橋本久三(後のダイナミック橋本=晴海)にも判定で敗れています。
 67年3月,17戦目にしてようやく6回戦に進みますが,新関利幸(協栄)には判定負け,日本王座に2度挑戦した岩田肇(後の虎岩純=リキ)には3回KO負けを喫するなど,無名時代は低迷が続きました。同じ年の11月には初の海外遠征でグアムに飛び,初の10回戦のリングに立ち,グレグ・パンヘリナン(比国)に3回TKO勝ちしています。
 68年2月にはホノルルに遠征しましたが,これはベテランのベト・マルドナド(メキシコ)に判定負けで退いています。マルドナドは同じ年に来日し,ドワイト・ホーキンス(米国)に初黒星を喫したばかりの柴田国明(ヨネクラ)の再起第1戦の相手を務めた選手です。
 そして同じ年の7月には無名時代の西城とも戦ったことがあるサウスポーのテクニシャン長谷川俊正(京浜)を7回KOで破りました。1ヶ月後の8月にはパット・ゴンザレス(比国)と対戦し,これは判定負けしています。ゴンザレスは何度も来日したお馴染みの選手です。
 同じ68年10月にはソウルに飛び,東洋バンタム級王者・李元錫(韓国)とノンタイトルで対戦しましたが,これは歯が立たず,6回KO負けに退きました。そして,わずか1ヵ月後の11月には32戦目でアーニー・クルス(比国)に初回KOで敗れています。クルスはルーベン・オリバレス(メキシコ)やベン・ビラフロア(比国)とも戦った強打者でした。

 ここまで清水は11敗をマークしています。パンチは強かったですが,荒っぽかったため,波があり,打たれモロさも手伝って,負けが込みました。
 このときの日本ジュニア・フェザー級王者は太郎浦一(タロウウラ・ハジメ=新和)でした。太郎浦(本名:太郎浦義人)はサウスポーのテクニシャンです。層の薄い新設クラスで初代王者となり,強敵に遭遇するわけでもなく,9度の防衛という長期政権を築いていました。タイトルの保持期間は実に4年6ヶ月もの長期間に及んでいます。しかし,60戦のキャリアの中でKO勝ちが1度しかないという戦績が示すように,パンチ力に欠け,地味な試合が続いたため,人気はありませんでした。太郎浦がひととおり挑戦者を退けていたこともあり,海外遠征で力を付けた清水は負けが込みながらも,日本ランクの1位に進出していました。
 69年2月,清水は太郎浦の10度目の防衛戦の相手に選ばれました。33戦目にして初のタイトル挑戦のチャンスです。試合前の予想は老獪なテクニシャンの太郎浦有利というものが圧倒的でした。両雄が顔を揃えた公開練習では,ベテラン王者・太郎浦が清水のサンドバッグを支えてやるという余裕を見せました。
 しかし,試合は大方の予想を覆す結末となりました。清水は開始早々から負けん気の強さを前面に押し出した荒っぽい攻撃一辺倒のボクシングで太郎浦に迫ります。2回,太郎浦は早くも右目上をカット。勢いづいた清水は猛然と襲い掛かり,左フックでダウンを奪った後,右フックで再度太郎浦を倒します。清水は3回にも猛烈な左右フックの嵐で3度のダウンを奪い,見事なKOでこのクラスの第2代王座を手にしました。太郎浦はこの試合を最後に引退しました。ちなみにこの試合は日本ジュニア・フェザー級タイトル戦の歴史の中で,初めてKO決着となった記念すべき試合です。言い換えれば,それだけ太郎浦が地味な選手であり,このクラスの人気がなかったことを示していると言えます。
 このとき清水は21歳の若さ。専修大学文学部の1年生という学生チャンピオンの誕生でした。リング上で飛び上がって喜びを全身で表現した姿が印象的でした。当時は前年の東大・安田講堂の攻防戦に象徴されるように,大学紛争の火が燃え盛っていた頃でした。そんな社会情勢の中での学生チャンピオン清水の誕生は,私には非常に清々しく映ったものです。

 清水は2ヵ月後の69年4月,初防衛戦に中島建次郎(船橋)を迎えました。いよいよ日本ボクシング史に名を残す伝説の清水vs.中島3連戦の始まりです。試合は開始早々から激しい打ち合いになりました。相打ちの左フックでまず中島がダウン。しかし,2回に入り,中島が反撃に転じ,左右の連打を浴びた清水はロープダウンを取られました。左フックで2度目。最後は左右アッパーの連打から右アッパーを受け,清水は3たびダウンし,逆転KO負けで初防衛に失敗しました。船橋ジムの専属トレーナーになったばかりのエディ・タウンゼント氏の指導を受けた中島の見事な王座奪取でした。中島は桐生高から中大に進み,アマチュアで鳴らした強打者で,東京オリンピックの強化選手にもなったファイターです。

 ここで終わっていれば,後年まで語り継がれる名勝負にはならなかったでしょう。しかし,完敗を喫した清水がここで奮起します。3ヵ月後の7月,3日前のアポロ11号月面着陸の余韻が残る中,リターンマッチが実現しました。これも第1戦にも増して激しい打ち合いになりました。序盤から両者が右目上をカットし,お互いに出血する凄惨な試合になりました。両者ともに一歩も譲らぬスリリングな展開が続きましたが,7回,王者・中島の右フックで清水ダウン。このまま中島が清水を返り討ちにするかと思われた8回,今度は死力を振り絞った清水の猛反撃が始まります。右アッパーがまともにアゴを捉え,中島たまらずダウン。そのままカウントアウトとなり,清水は劇的な逆転KOで王座を奪回しました。
 この試合の放送席には,解説の林国治氏,矢尾板貞雄氏と並んで,ゲストとして漫画家・富永一朗氏が陣取り,清水に声援を送りました。富永氏は米倉会長や選手たちと親交がありました。
 清水は第1戦の逆転KO負けがよほど悔しかったのか,アパートを引き払い,米倉会長の自宅に合宿して,リターンマッチに備えました。もともと放浪癖がある清水は,第1戦の直後にちょっとした行方不明騒ぎにもなったとも伝えられています。兄・洋氏が『根性を入れ直して欲しい』と自分の勤務先である建設会社の猛烈社長に頼み込んで,社員にしてもらったというエピソードが残っています。雪辱を期し,米倉会長とともに茨城県鹿島で2度のキャンプを張り,万全の体制で臨んだリターンマッチでした。

 第1・2戦がいずれも逆転KOというスリリングな結末になったことで,当然ラバーマッチへの期待が膨らみました。4ヶ月後の69年11月,王者・清水が再び中島の挑戦を受ける形で第3戦が実現しました。この試合も激しくスリリングな展開になり,後楽園ホールは超満員のファンで膨れ上がりました。試合は,開始ゴングとともに飛び出した中島が左右の連打から右フックをヒットして,先制のダウンを奪います。しかし,2回,今度は清水の右フックで中島がダウン。そして,同じ右フックがテンプルにクリーヒットし,中島は深々とキャンバスに沈みました。
 『これが本当のボクシングです』と胸を張ったのはマッチメーカーの坂井四郎氏でした。後楽園ホールに詰め掛けたファンは3試合連続で展開された逆転KO劇に酔いしれました。

 翌70年1月には後に東洋フェザー級王者となった金R(韓国)と引き分けますが,6月の2度目の防衛戦では2年前に一度KOしている長谷川俊正(京浜)を迎えました。米倉会長は引退したばかりの関光徳氏が旧知の長谷川の参謀になったことに不安を感じていたようですが,清水は開始早々から長谷川を呑んでかかります。2回に右ストレートでダウンを奪うと,右フックで長谷川を深々と沈め,返り討ちにしました。
 しかし,清水の快進撃もここまで。70年8月には牛若丸原田(笹崎)の小気味良い連打に9回終了KOで完敗となりました。そして,11月には愛媛に飛び,アタック原田(原田武男=クラトキ)の挑戦を受けましたが,サウスポーの原田に判定負けし,3度目の防衛に失敗しました。このアタック原田は後に関西で審判員になった人です。
 71年12月,ソウルに遠征した清水は金R(韓国)との再戦に臨みましたが,判定負けしています。結局,この試合がラストファイトになりました。

 清水は左右フック,アッパーの強打に加え,セコンドが手綱を放したらどうなるかわからないほどの,今風に言えばイケイケのファイターでした。手を抜くことを知らぬ猛烈なファイトから生み出される派手なKOシーンで一世を風靡しました。まさに,始めからスタミナ配分などは眼中にないかのようでしたね。
 特に前述した中島との3連戦は,まさに歴史に残る熱闘であり,オールドファンの間では今でも語り草になっています。3試合すべてが最初にダウンを奪った方がKOされると言う,不思議なジンクスに包まれた激戦でした。その3試合が,わずか7ヶ月間に繰り広げられたのですから,ファンが熱狂するのも無理はありません。そういう私も,第1戦こそテレビ観戦でしたが,第2・3戦は後楽園に足を運び,この歴史的な激戦の目撃者の一員になることができました。
 年間最高試合と言えば,世界戦の中から選出されるのが常道ですが,1969年は文句なしに清水vs.中島戦が選ばれました。この年は海老原博幸(協栄),小林弘(中村),西城正三(協栄)らが世界王座に君臨し,世界戦も行われていましたが,清水vs.中島戦を年間最高試合に推すことには誰も異論を挟む余地がありませんでした。
 清水はリング上の激しいファイトとは裏腹に,リングを降りれば非常に人懐っこく,”クーちゃん”という愛称で親しまれていました。当時は現役の学生であり,郡司信夫さん主宰の”ガゼット座談会”に詰襟の学生服姿で出席していたことが思い出されます。
 人一倍の感激屋で,リング上で見せる派手な喜び方も印象的でした。太郎浦に勝って名前が売れてから,スポットライトを浴びていたのはわずか1年半ほどの短期間でしたが,ボクシングの醍醐味を身を挺して体現し,全力で駆け抜けた濃密な時間だったと思います。よくロベルト・デュラン(パナマ)とエステバン・デ・ヘスス(プエルトリコ)が”中南米の武蔵と小次郎”に例えられますが,清水と中島は紛れもない”元祖・武蔵と小次郎”ですね。
 清水自身のボクシング哲学は『ボクシングなんて長くやるものではないです。卒業して外国に行くことが目標ですから・・・』というコメントに象徴されているように,『太く短く』という考え方だったと思います。まさにその考え方を地で行ったと言えるのではないでしょうか。
 もともと海外志向があり,引退後は米国に渡ったと聞いていますが,その後の消息は伝わっていません。今,どうしているでしょうか。あの猛烈なファイトが懐かしいです。


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