忘れ得ぬ戦士たち

(10) 門田新一(三迫)

場所・相手を選ばぬ天涯孤独のサウスポー

 生年月日  1949・03・26
 出身地  愛媛県伊予郡
 プロデビュー  1967・04・30
 ウェイト  ライト級
 主要タイトル  東洋ライト級
 タイプ  左ボクサーファイター
 終身戦績  49戦38勝(25KO)10敗1分
 主武器  右フック


 門田新一は昭和40年代中盤から後半にかけて活躍したサウスポーの強打者です。
 デビューは67年4月,蔵前国技館で行われた世界ジュニア・ウェルター級タイトルマッチ,サンドロ・ロポポロ(イタリア)vs.藤猛(リキ)戦の前座4回戦でした。竹之内徳美(ミカド)を初回KOしています。
 新人時代はそれほど注目された存在ではありませんでした。何度も来日してファイティング原田(笹崎)との対戦経験もあるパット・ゴンザレス(比国)には敗れています。また,後に日本王座に挑戦したリッキー沢(沢口和広=金子)とは1勝2敗という成績でした。
 門田が強くなったのは海外遠征に出てからです。単独でロスに定着し,世界的な強豪との対戦経験を持つ5人の選手とグラブを交えました。来日して藤猛と対戦したベニト・ファレス(米国)などには勝ちましたが,ホセ・ルイス・クルス(メキシコ)には敗れ,5戦4勝(1KO)1敗という成績を残しました。
 帰国後に3連勝をマークした門田はマニラに飛び,沼田義明(極東)に王座を明け渡したばかりの前WBC世界ジュニア・ライト級王者レネ・バリエントス(比国)と対戦します。しかし,さすがにバリエントスは強く,門田は判定負けで退きました。

 そんな門田にチャンスが巡って来たのは70年10月でした。趙永普i韓国)が持つ東洋ライト級王座に敵地ソウルでの挑戦が決まったのです。趙は7カ月前に安定王者だったジャガー柿沢(中村)から初回KOで王座を奪ったサウスポーの強打者です。趙が1年半前に来日して辻本英守(大星)に失神させられているとは言え,柿沢戦の強烈なKOシーン,敵地での挑戦ということもあり,門田有利の予想は立ちませんでした。しかし,門田は海外での強さを発揮し,強豪・趙を3回KOで破り,見事に王座を獲得しました。
 翌71年1月の初防衛戦で,”岩石男”と言われたタフなルディ・ゴンザレス(比国)を左ストレートからの右フックで7回KOに屠ります。後楽園アイスパレスの底冷えするリング上,門田だけが熱く燃えていました。
 そして,5月には前王者・趙とのリターンマッチに臨みました。サウスポーの強打者同士の一戦はスリリングな試合になりましたが,5回開始早々の右フックで趙はたまらずダウン。再開後,門田は怒涛の連打でフィニッシュしました。酒井リングアナウンサーのマイクを手にした門田の”音頭”で会場は『エイ,エイ,オー!!』の勝鬨の渦になりました。
 趙を返り討ちにしたことで門田の人気は不動のものになります。壮烈なKO劇,派手なパフォーマンスで一気にファンの心を掴んだのです。当然のように世界挑戦が話題になり,ファンの間にも待望論が高まりました。当時の世界王者はケン・ブキャナン(英国)でしたが,この交渉がなかなかまとまらず,門田は足踏みを強いられます。
 71年8月には鈴木石松(ガッツ石松=ヨネクラ)とノンタイトルで対戦しました。人気絶頂の東洋王者・門田と世界挑戦経験者・石松という好カードは人気を呼び,大田区体育館に4千人ものファンが詰め掛けました。試合はテクニックで優る石松が積極的な試合運びで押し気味に進めましたが,門田は持ち前の勝負強さを発揮し,疲れの見える石松を8回に捉え,猛烈なラッシュによる逆転KO勝ちで後の世界王者・石松を退けます。
 71年11月には後に世界ランカーとして活躍した強豪ルディ・バロ(比国)を右フックのワンパンチで沈め,3回KO勝ちで3度目の防衛を果たしました。そして翌72年1月,苦戦した鈴木石松を4度目の防衛戦に迎えましたが,これは予想に反する判定負けで王座を明け渡してしまいます。当初,挑戦者に予定されていたサンナパ・バヤクソポン(タイ)が来日不可能となり,8日前に石松が代役挑戦者に決まったものです。世界挑戦が何度も噂された門田にとっては痛恨の1敗でした。
 その後,門田は再び海外に活躍の場を移し,ロス,ホノルルを転戦しました。73年7月にはホノルルで前世界王者チャンゴ・カルモナ(メキシコ)と対戦し,7回に得意の右フック1発で沈め,その存在を強烈にアピールしました。帰国第1戦でジミー・ロバートソン(米国)を日大講堂に迎えました。後にロベルト・デュラン(パナマ)にも挑戦したロバートソンを門田は開始早々から圧倒し,4回に右フックで2度のダウンを奪ってKOで一蹴します。

 実力の割りにはなかなか決まらない世界挑戦にファンも苛立ちを募らせましたが,74年10月,ようやくアントニオ・セルバンテス(コロンビア)のWBA世界ジュニア・ウェルター級王座に東京で挑戦するチャンスが巡って来ました。門田恭明と改名して臨んだ待望の世界挑戦でしたが,これは相手が悪過ぎました。勝負強さで定評がある門田も,一階級上で史上最強と言われたセルバンテスにはまったく歯が立ちません。初回から強打を浴び,8度もダウンした末に,8回にKO負け。担架で運び出される壮絶な玉砕でした。実力差もありましたが,体格差が目立ち,当時の私のノートにも『せっかくの逸材を潰さないように・・・・・本来のライト級に戻って再出発を・・・・・』という記述が残っています。
 三迫会長は実力差・体格差を認めながらも,『やり直します』とコメントしましたが,門田が2度目の世界挑戦の日を迎えることは永遠にありませんでした。セルバンテス戦以降の門田は一気に下降線を辿ります。山龍義一(野口),レイ・アディオ(比国)を相次いでKOしますが,オーストラリアのブリスベーンでヘクター・トンプソン(オーストラリア)に5回KO負け。ガーナ人のサニー・メイスン古賀(神林)には8回KOで勝ったものの,苦戦の連続でした。海外で活躍した門田らしく,ラストファイトはロスでシグフリート・ロドリゲス(メキシコ)に4回KOで敗れています。

 幼い頃に相次いで両親と死別し,兄弟もなかったため,門田はまったくの天涯孤独です。愛媛県・新田高のボクシング部時代に同郷の三迫会長にスカウトされてプロへの道を選びました。上京したときに両親の位牌を胸に抱いていたというエピソードはあまりにも有名です。ロスにも位牌を持参したと言いますから,親孝行だったんでしょうね。天涯孤独の境遇からか,門田はある新興宗教を心の支えとしており,朝晩約1時間の読経を欠かさないという熱心な信者として知られていました。
 サウスポースタイルから繰り出す強烈な右フックを武器としており,この右フックで何度もワンパンチKOを演じています。チャンスを掴んだときの詰めの鋭さも門田の真骨頂であり,怒涛のラッシュが忘れられません。
 活躍の場は国内に限りませんでした。東洋王座を獲得したのが敵地・韓国であり,ロス,ハワイでも堂々と実力を発揮する逞しさに,頼もしさを越えて痛快感さえ覚えたものです。場所や相手を選ばずに活躍した門田。後楽園でしか戦わない,楽に勝てる相手としか戦わない現代の選手に対して,天涯孤独から身を興した門田の壮絶な生き様は,プロボクサーのあるべき姿を無言で語っているような感じがします。
 結局,世界挑戦は1度切りでしたが,何度も話題になりながら,門田の世界挑戦は難航しました。東洋タイトルを賭けた再戦で石松に完敗して,ゴンザレスへの挑戦を石松に先を越されてしまった形になりました。そこで一階級上げて,ジュニア・ウェルター級に活路を見出したんですが,これは選手としてのピークをやや過ぎた時期に,本来のライト級から水増ししての挑戦。前述のように体格差もあって惨敗となりました。心技体のすべてに充実して,ピークを迎えていた71〜72年頃に本来のライト級で世界に挑戦していればと悔やまれます。
 門田のボクサー人生にはどこか悲運の香りが漂っていますが,総括して見ると,石松との再戦での黒星がその伏線になっていたような気がします。あの試合で石松を返り討ちにしていれば,門田のその後は大きく変わっていたでしょう。選手としてのピーク時に,本来のライト級で石松より先にゴンザレスへの挑戦が実現していたかも知れません。
 しかし,それは別にして,世界王者でもないのに日大講堂,大田区体育館でメインを張り,4千人,5千人も動員したんですから,その人気がいかに凄まじかったかが伺えるというものです。世界を股にかけての大活躍,逞しく生きる雑草魂が忘れられません。
 引退後は故郷・愛媛県の松山市で愛拳松山ジムを主宰し,その後東京に移って,フォーラムスポーツジムの会長として後進の指導に当っています。三迫一門会の中でも重要な位置を占めており,今後の活躍が期待されます。

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