忘れ得ぬ戦士たち

(9) ライオネル・ローズ(豪州)

無名から踊り出た褐色のシンデレラボーイ

 生年月日  1948・06・21
 出身地  オーストラリア ワレゴン州
 プロデビュー  1964・09・09
 ウェイト  バンタム級
 主要タイトル  世界バンタム級
 タイプ  右ボクサー
 終身戦績  53戦42勝(12KO)11敗
 主武器  左ジャブ,右ストレート

 日本ボクシング界にとって忘れられない外国人ボクサーは数多いですが,ローズもそのひとりでしょう。
 デビューは64年9月です。世界タイトルを獲得したのが29戦目ですが,それまでの28戦はニュージーランドで1試合しただけで,残りはすべてオーストラリア国内での試合です。日本に馴染みの対戦相手としてジェリー・ストークス(米国),ロニー・ジョーンズ(米国),タイニー・パラシオ(比国)らに勝っていますが,まったく無名のボクサーでした。このうちストークスは沼田義明(極東)がラウル・ロハス(米国)の挑戦を受けたときに,ロハスのスパーリングパートナーとして来日しています。ジョーンズ,パラシオも来日経験があります。
 68年2月,ひょんなこと(経緯は後ほど)からファイティング原田(笹崎)の世界バンタム級王座に挑戦するチャンスが巡って来ました。マネジャーのジャック・レニー氏とともに羽田に降り立ったローズはマドロスパイプをくわえて記者会見に姿を見せ,報道陣を驚かせました。
 試合は日本武道館で行われました。ローズは序盤から速いフットワークと左ジャブ,ワンツーで原田を苦しめます。9回にはローズの右フックが決まり,原田は右膝をついてカウント8のダウンを取られました。原田は動きの速いローズを最後まで捉えきれず,僅差で判定を落とし,エデル・ジョフレ(ブラジル)から奪った王座は南半球に持ち去られてしまいました。ローズはこの時点で,まだ19歳8カ月の若さでした。
 この試合の審判員構成は遠山,手崎,森田。いずれも日本人でしたが,僅差ながら3人ともローズの勝利を支持し,フェアなジャッジと評価されました。
 4カ月あまりでローズは再び日本武道館のリングに立ちました。68年7月の初防衛戦で桜井孝雄(三迫)の挑戦を受けるためです。
 桜井は東京五輪バンタム級の金メダリストからプロ入りした22戦無敗のサウスポーです。一方のローズは来日後のスパーリングで桜井保男(協栄)の左ストレートを食って仰向けにダウンしたり,左足首を痛めて4日間に渡って練習を休むなど,アクシデントが続きました。桜井のテクニックに大きな期待がかかります。
 試合は2回,桜井の左ストレートが見事なカウンターでヒット。ローズは呆気なく尻餅をついてダウン。世界に手が届かないまま引退した桜井が,その生涯で最も世界のベルトに接近した瞬間です。しかし,皮肉にもこのダウンが世界のベルトから桜井を遠ざける結果になりました。予想外に早く訪れたチャンスに,三迫会長は桜井に対してブレーキをかけ,”安全運転”の指示を出します。ローズはジリジリとポイントを挽回し,終わって見ればまたしても僅差の判定勝ちで初防衛を果たしました。
 ローズはその後,チューチョ・カスティーヨ(メキシコ),アラン・ラドキン(英国)を破り,3度の防衛に成功しています。
 しかし,その頃,バンタム級にはとんでもない怪物が台頭していました。その名はルーベン・オリバレス(メキシコ)。ローズが苦戦した桜井をもKOしている”ミスターノックアウト”で,54戦無敗52KO勝ちというモンスターです。69年8月,ローズはロサンゼルスに乗り込み,4度目の防衛戦でオリバレスと対峙しました。結果は5回KO負け。ローズは勇敢に戦いましたが,得意の強打を意のままに操るオリバレスに,完膚なきまでに打ちのめされ,ついに王座を明け渡します。
 王座を奪われたローズは減量苦もあり,フェザー級に転向しました。しかし,来日経験もあるフェルナンド・ソテロ(メキシコ)やラウル・クルス(メキシコ)に相次いでKOされるなど,下降線を辿り始めました。70年12月にはメルボルンで鈴木石松(ヨネクラ=後のガッツ石松)に判定勝ちします。71年5月,3度目の来日でさらに階級を上げ,沼田義明(極東)のWBC世界ジュニア・ライト級王座に挑戦しましたが,これも判定負けで返り咲きは成りませんでした。
 76年8月,後の世界王者ラファエル・リモン(メキシコ)に3回KO負け。さらに,この年の12月にモーリス・アペング(フランス)にも2回KO負けしたのがラストファイトになりました。

 ローズのボクシングはスピードが身上です。アボリジアニの血を引くローズは,抜群の反射神経とスピーディなアウトボクシングを披露しました。パンチ力はありませんが,速いフットワークに乗せた左ジャブ,ワンツーのスピードには目を見張るものがありました。しかし,ピークは意外にも短かかったですね。オリバレスに王座を奪われた時点では,まだ21歳でしたから,下降線を辿るにはあまりにも早かったと思います。
 原田戦,桜井戦でいずれも僅差の判定勝ち。敵地ですし,本来ならホームタウンデシジョンで試合を落としてもおかしくありません。そういう微妙な試合にいずれも公平な採点をしてくれたということで,ローズは非常に親日的でした。後に原田が3階級制覇を狙って,シドニーでジョニー・ファメション(オーストラリア)のWBC世界フェザー級王座に挑戦し,”疑惑の判定”で涙を呑んだとき,『原田は勝っていた』と発言し,話題になりました。
 性格は明るく,屈託がなく,非常にスポーツマンらしい親日家として知られています。その反面,気分に左右されやすいところもあったそうで,マネジャーのジャック・レニー氏はローズの気持ちを盛上げるのに苦労したようです。

 話が戻りますが,無名だったローズのもとに世界挑戦のチャンスが巡って来た裏には,ちょっとしたドラマがありました。
 1967年末,世界バンタム級王座に君臨していた原田は,5度目の防衛戦の相手にヘスス・ピメンテル(メキシコ)を迎えることがほぼ決まっていました。ピメンテルは双子の兄でした。金沢和良(アベ),中根義雄(不二),牛若丸原田(笹崎)が戦ったのは兄のヘスス・ピメンテルで,最高位は世界バンタム級1位です。弟のホセ・ルイス・ピメンテルは西城正三(協栄)と3度対戦しました。
 ところがせっかく決まりかけていた世界挑戦が,直前に御破算になってしまったんです。ピメンテル陣営がファイトマネーを不服としたことが原因でした。マネジャーのハリー・カバコフ氏がかなりの辣腕でしたからね。それで急遽白羽の矢が立ったのが当時無名だったライオネル・ローズです。
 ピメンテル兄はKO率9割という強打者でした。最強の挑戦者と言われ,『原田危うし』という声が高かったんですが,一転して無名のローズが相手ということでマスコミもファンもちょっと気が緩みましたね。まあ,ボクシングではこういうことがよく起こります。負けるときはそんなものなんでしょう。もちろん原田本人には油断などはなかったと思いますが,結果は御存知のとおり。原田は減量の影響もあり,動きの速いローズを捉え切れませんでした。
 ピメンテル兄にしてみれば,原田への挑戦を放棄した形になってしまい,絶好のチャンスを自分で潰してしまったんです。ようやくオリバレスに挑戦するチャンスが来た時にはすでにピークを過ぎていて,11回TKOで退いています。
 挑戦のチャンスを自ら放棄して結局無冠のままボクシング人生を終えてしまったピメンテル,最強の挑戦者の代役として浮かび上がった無名のローズに王座を追われた原田,タナボタ式に手にしたチャンスを見事にモノにして世界の王座に座ったローズ。メキシコ,東京,オーストラリアで生まれ育ち,お互いに何の縁もないはずの3人。たった1度の試合を巡り,その彼らの人生が偶然に交錯し,彼らはその運命の波に呑み込まれて行く・・・・・。『生まれたときから赤い糸で結ばれている』と言いますが,まるで広大な宇宙空間で天体同士が演じる衝突,ニアミスのようではありませんか?
 こうして考えてみると,リングは人生の縮図そのものですね。ロマンを感じます。こういうドラマがあるからこそ,ボクシングは面白いんです。



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