忘れ得ぬ戦士たち

(8) カシアス内藤(船橋)

和製クレイ,駆け抜けた”一瞬の夏”

 生年月日  1949・05・10
 出身地  兵庫県神戸市
 プロデビュー  1968・11・13
 ウェイト  ミドル級
 主要タイトル  日本ミドル級,東洋ミドル級
 タイプ  左ボクサー・ファイター
 終身戦績  39戦27勝(13KO)10敗2分
 主武器  右フック,アッパー,左ストレート

 カシアス内藤は黒人のアメリカ兵と日本人女性との間に生まれました。本名は内藤純一。神戸生まれの,横浜育ちです。
 神奈川県の野球の名門・武相高に進学し,ボクシング部に入部しました。67年にはミドル級の高校チャンピオンに輝いています。武相高のOBですから,後の世界ミニマム級王者・星野敬太郎(花形)の大先輩に当たるわけですね。
 内藤の素質に目をつけた船橋ジムの石川昭二会長が自宅に同居させ,船橋ジムからプロ入りしました。リングネームの”カシアス”は元世界ヘビー級王者のカシアス・クレイ(米国=モハメッド・アリ)にあやかって,石川会長が命名したものです。本人はカシアス内藤という名前は気が重かったようで,父からもらった”ロバート・ウィリアムス・ジュニア”という名前をそのままリングネームに使いたかったそうです。

 重量級らしからぬスピードが売り物のサウスポーで,強打に加え,黒人とのハーフ特有の精悍な風貌も手伝って,あっという間に人気が沸騰しました。
 デビューは68年11月,高田時男(白鷺)に初回KO勝ちです。層が薄い日本ミドル級で,たいした壁もなくトントン拍子に勝ち上がりました。デビューの翌年から,エディ・タウンゼント氏の指導を受け,メキメキと実力を発揮し始めます。
 69年に江藤義昭(新和),ハリケーン藤田(塚原),ジュン・アグオン(米国),フィル・ロビンソン(米国)を連破したころには,マスコミの扱いもかなりのものになりました。ロビンソンは”グアム島ミドル級チャンピオン”という触れ込みでしたが,内藤の左ストレートであえなく沈みました。
 69年12月には,世界挑戦に敗れたばかりの南久雄(中外)の胸を借ります。内藤は重量級の大先輩・南を見事に破り,新旧交代を鮮やかにアピールし,この年の年間表彰で新鋭賞に選ばれています。
 こうなると,気が重かったはずのリングネームも,板に付いてくるから不思議です。沸騰する人気に比例し,ファイトマネーも鰻上り。全国からお声がかかり,地方のリングに上がることも多かったです。
 ハーフに対する偏見などで苦しかった少年時代の影響もあったのか,内藤は石川会長からファイトマネーを受け取るたびに,『将来,喫茶店をやるための資金に』と言って,貯蓄に回す堅実な面を見せました。20歳の内藤の考え方は非常にしっかりしており,『肌の色の違いをプロモーターの人たちが利用したいなら,それでいいです。ボクはひとりのボクサーとしてリングに上がり,生きるだけですから。自分がしっかりすること。誰よりも身に染みてそれを感じています』と取材の記者に語っています。
 もともと練習は好きではないようで,夜逃げ同然に石川会長の自宅を去ったこともあったそうです。それでも日常生活は石川会長,ボクシングはエディさんの指導を受け,内藤は練習嫌いを返上して行きました。
 そして,70年2月,無敗のまま15戦目に,江藤のタイトル返上で空位となった日本ミドル級王座を赤坂義昭(帝拳)と争うチャンスを掴みます。余談ですが,この赤坂という選手は,現在,協栄札幌赤坂ジムの会長で,ミドル級の元日本王者です。トレーナーをしているお嬢さんといっしょに,畠山昌人選手のセコンドとして元気な姿を見かけます。
 試合の話に戻りますが,上り坂の新鋭・内藤とピークを過ぎた元王者・赤坂の対決は一方的な内藤のペースになりました。5回以降,上への攻撃からボディ攻撃に切り替えた内藤は8回,ボディ連打で3度のダウンを奪い,鮮やかなKO勝ちで初タイトルを手にします。成人式を迎えたばかりの若い新チャンピオンが羽後主審と前王者・江藤義昭に高々と手を上げられ,泣き出しそうな表情を見せていたのが印象的でした。
 わずか1カ月後の初防衛戦では,これも元王者・ベンケイ藤倉(ヤジマ)を4回KOで一蹴しました。コッミッションから休養を勧告されていた藤倉は,病院回りでやっと許可を得て上がったリング。破竹の快進撃を続ける内藤の敵ではありません。

 この16戦目までは,内藤のリング人生の序章です。人気は沸騰し,プロモーターからは引っ張りダコ,ファイトマネーも上がる一方。世界5位という肩書きまで付いて,日本人初の重量級での世界タイトルへの期待も膨らみます。しかし,その一方で『大事に育て過ぎている』との声も聞かれました。
 そんな中,17戦目に迎えた相手はチャーリー・オースチン(米国)。アリゾナ州王者という肩書きで,誰がやっても苦戦するというので,”Bad News”という異名をとる,本場で揉まれた選手です。
 順風満帆の内藤にとって,ある意味で鼎の軽重を問われる一戦でした。ところが内藤は思わぬ拙戦を演じ,分の悪いドローになります。不気味な”本場の重量級”を前に弱気の虫が出てしまったんです。終盤に追い上げを見せたものの,破竹の勢いの面影はまったく見られません。ハツラツとしたファイトを期待していたファンから罵声を浴び,内藤はリング上で土下座して四方に詫びました。
 このオースチン戦を境に,内藤は生来の気の弱さを露呈し,それまでの快進撃がウソのように精彩を欠く試合が多くなりました。日本王座を4度防衛した後,71年1月,李今沢(韓国)に判定勝ちで東洋ミドル級王座も手にします。その直後に日本王座は返上しました。しかし,せっかく獲得した東洋王座もソウルへの遠征で,あの柳済斗(韓国)に6回KO負けで初黒星を喫し,あっさりと手放しました。日本人キラーと言われ,輪島功一(三迫)との死闘で名を残すことになる柳は国内タイトルに続く東洋王座獲得でした。ちなみに内藤はこの試合を含めて,柳とは東洋王座をかけて4度対戦しましたが,全敗(2KO負け)という成績に終わっています。

 72年2月には輪島の世界王座獲得第一戦の相手に選ばれ,東京体育館でのノンタイトル12回戦が実現しました。このカードは人気を呼び,東京体育館はギッシリ。両者は期待を裏切らない白熱したダウンの応酬を展開します。結果は輪島の7回KO勝ち。王座を獲得したカルメロ・ボッシ(イタリア)戦では”カエル飛び”などの変則戦法が話題を呼んだ輪島ですが,この夜は一転して正統派のインファイトで堂々たる王者の風格を見せます。内藤も1度は輪島をダウンさせたものの,輪島の見事なインファイトの前に5,6,7回に計6度倒されて万事休す。
 しかし,弱気と言われた内藤がこの試合で見せた闘志には凄まじいものがありました。吉田主審のカウントアウト後に朦朧としつつも輪島に向かって行き,セコンドに止められる場面は見ていて目頭が熱くなりました。72年の年間最高試合は大場政夫vs.オーランド・アモレス戦ですが,輪島vs.内藤戦もその候補に名を連ねたほどの激闘です。評論家・郡司信夫氏は日頃から内藤の精神面の弱さを指摘していましたが,何度倒されても輪島に歯を剥いて向かって行った内藤の姿には,その郡司氏自身が舌を巻くほどの鬼気迫るものがありました。この一戦はTBSからビデオが市販されていますので,興味がある方はぜひ御覧になってください。
 この年の12月には一度返上した日本ミドル級王座を沖田健(石橋)と争い,判定で奪回しました。そして,翌73年2月にはスチーブン・スミス(石橋=のちのフラッシャー石橋)の挑戦を受けます。内藤自身は絶好調でしたが,さすがにスミスのパワーはすさまじく,強打を浴びた内藤は初回から苦戦。4回にノーモーションからの右ストレート2発で内藤ダウン。そこからはワンサイドゲームになります。7回にロープダウンをとられた後,連打にさらされたところでタオルが舞いました。完敗で王座を譲った内藤に対して,在日米軍横田基地勤務のスミスは11戦目で初の戴冠でした。
 スミス戦以降の内藤は負けが込み,一気に下降線を辿ります。74年7月,後の世界王者・工藤政志(熊谷)の踏み台になり,一度はリングから去りました。4年後の78年10月に突如復帰し,大戸健(高崎),羽草勉(北九州)を連続KOして気を吐きましたが,すでに昔日の面影はありません。79年8月,ソウルに乗り込み,朴 鍾八(韓国)の東洋王座に挑んだものの2回KO負け。その年の12月,鈴木直人(角海老)にも6回KOで敗れ,ついに引退しました。作家・沢木耕太郎氏がこの間の様子を題材とした”一瞬の夏”を発表して反響を呼んだことは御存知のとおりです。

 内藤は黒人とのハーフという話題性もあり,実力より先に人気が過熱した感があります。専門誌以外のマスコミに登場することが多く,時には興味本位で取り上げられたこともありました。これは成人式を迎えたばかりの若者には気の毒だったかも知れません。
 体のバネ,柔軟性には天性のものがあり,そのスピードあふれるボクシングには目を見張るものがありました。69年中盤から,70年に日本王座を獲得し,初防衛に成功するまでの1年余の内藤はホントに光り輝いていましたね。今から考えると,短い”一瞬の夏”を競って一気に花開く高山植物のような,そんな輝きを放っていた感じがします。
 ただ,キャリア全般を振り返って見ると,しばしば精悍な容貌に似合わぬ弱気なところが見られました。その辺が恵まれた素質を最後まで生かし切れなかった原因でしょうか。デビューからの快進撃が華々しいものだっただけに,晩年に若い選手の踏み台になった姿には淋しいものがありました。
 10年以上も前になりますが,私は東急・東横線の車内で偶然にも内藤の向かい側に座ったことがあります。髪が長くなっていたこと以外は昔と変わらなかったです。声を掛けようかと思いましたが,どうしてもできませんでした。
 2005年には横浜市中区に『E&Jカシアスボクシングジム』を開設して話題になりました。


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