忘れ得ぬ戦士たち

(4) 金沢英雄(新光)

右で倒しまくる”泣きの金沢”

 生年月日  1947・06・14
 出身地  韓国済州道
 プロデビュー  1966・10・25
 ウェイト  ウェルター級 → ジュニア・ミドル級
 主要タイトル  東洋ジュニア・ミドル級
 タイプ  右ボクサー
 終身戦績  38戦25勝(11KO)12敗1分
 主武器  右ストレート


 金沢英雄と言っても,若い方はピンと来ないかも知れません。ルーベン・オリバレス(メキシコ)との死闘で知られる金沢和良ではありません。この人こそ,誰あろう,徳山昌守を世界チャンピオンの座に導いた現・金沢ジム会長です。リング上で徳山の横に付き添っている姿を記憶している方は多いでしょう。今でこそ丸々と肥えて,とぼけた味のオッサンになっていますが,東洋ジュニア・ミドル級の王者として君臨していた現役時代はなかなかのハンサムで,長身のボクサータイプとして鳴らしました。
 大阪・興国高時代は野球部の選手だったそうです。興国高と言えば,68年に夏の甲子園を制覇した高校野球の名門です。金沢は大阪にある宮本会長の新光ジムから66年にデビューしましたが,東京で龍反町(野口)に連続KO負けを食うなど,精神面の弱さも災いして低迷しました。
 そんな金沢ですが,69年9月,ノンタイトル戦で当時の東洋ジュニア・ミドル級王者・溝口宗男(リキ)を3回KOで破る大殊勲を上げ,一気に開眼します。2カ月後にはその余勢を駆って,溝口の返上で空位となった東洋王座の決定戦を李アンサノ(韓国)と争い,初回KO勝ちで念願のチャンピオンに輝きました。李の来日が遅れ,試合が直前に延期されるアクシデントをモノともしない圧勝でした。リング上で感激のあまり泣き出し,インタビューにならなかった姿が印象的でした。
 溝口戦から数え,6連続KO勝ちをマークします。まさに開眼と言う表現がピッタリはまるような快進撃でした。この頃がピークです。東洋の王座は75年2月に林載根(韓国)に3回KO負けで明け渡すまで,実に5年3カ月もの長期間保持し,8度の防衛を果たしています。
 しかし,実際のピークは戴冠後の1年あまりの短期間でした。71年2月には格下であるはずの日本王者・輪島公一(三迫=のち功一)とのノンタイトル戦でわずか2回でKOされるなど,再びかつての精神面の弱さや打たれモロさが出ることが多かったです。晩年は勝った試合もピーク時とは程遠く,ダルな凡戦を繰り返して精彩を欠きました。
 柳済斗(韓国)とは1敗1分でいずれもフルラウンド戦い抜いていますが,73年7月には東洋王者のまま1階級上のフラッシャー石橋(石橋)の持つ日本ミドル級王座に挑戦し,8回にKO負けしました。龍反町とは結局3度対戦し,すべてKO負けを喫しています。

 リーチに恵まれ,長身から放つ右ストレートに破壊力のあるボクサータイプです。ピーク時にはその右ストレートで倒しまくりましたが,精神面の弱さや打たれモロさは変わらず,勝負への執着心も欠けていました。現役時代を総括して見ると,ピークは華々しかったものの素質を十分には生かし切れなかったのではないかと感じます。とは言っても,関東とのレベル差が大きかった当時の話。テクニシャンとして鳴らした南久雄(中外)と並び,関西の重量級を背負っていたボクサーだったと思います。
 現役時代は勝っても負けてもリング上で涙を流すので,”泣きの金沢”と言う異名をとりました。まさか引退後に世界チャンピオンを擁する名伯楽になるとは想像もできませんでした。お世辞にも大手とは言えない金沢ジムを率い,ホントによく頑張っていると思います。現役時代の執着心に欠けた戦いぶりがウソのようです。”泣きの金沢”が世界の徳山をどのように導いて行くのか,今後のマネジメントに注目しましょう。


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